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見ているけれど、見えていない

毎日のように通り慣れた道や見慣れた風景のはずなのに、ふと違和感を覚えることがある。

つい先日まで立体的な印象だった角地が突然、更地やキレイな駐車場になっていたり、真新しいコンビニが突如現れたり。

ここ数年、そんなことが多くなった気がする。

団塊の世代がリタイアされはじめたことや少子化、相続税問題など諸々の事情が表面化してきているんだろうなぁと、なんとなく思ったりするのだけれど、その前にもう一つ、ぼくの頭を過ぎることがある。

あれ、ここって以前、何が建っていたっけ?

これがドラマ「VIVANT」に出てきた別班隊員になるための面接試験なら、ぼくは完全に失格である。
もともと、ぼくの記憶力が残念なこともあるけれど、それはさておき。

これって、いかに人は見たいものしか見ていないか、ということではないか。
実際には視界に入っているし、見えているのだけれど認識をしていない。
自分が興味あるもの、知っているもの、見たいものしか人は見えていない。
服装や髪型、持ち物など、特に興味がなければ気にも留めないのに、必要に迫られたり自分ごととして意識しはじめると、街中ですれ違う人のそれらが気になりはじめることがあるのは、同じ現象なんだろう。

これは、自分にとって必要な情報か否かをおそらく無意識のうちに取捨選択しているためだろうと思うけれど、同時に自分の視野の狭さを痛感する。
駐車場やコンビニになる以前の建物が何であったかは正直どうでもいいんだけれど、もっと大切なものやことも見てはいるけれど見えていない、認識できていないものがたくさんあるような気がしてならない。
自分に見えている世界、認識している世界、理解できている世界なんて、ごく僅かなとても小さな世界なんだろうな。

でも、こういった気にすらしていなかったものを認識する機会があれば、思いのほか興味が湧くことやそれについての知識を習得したり行動を起こすにきっかけになることもあるに違いない。またそういったことが結果的に視野を広げることにつながるだろうし、何をするにしてもそれだけ選択肢が増えることにもなると思う。

そう、そう、この話は昨日の続きのつもりで書いている。で、明日もこの続きになる予定なのである。文章が下手なため、わかりづらくて申し訳ない。




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