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ドカタという言葉から見る根深い勘違い
ドカタという言葉で現場職をバカにしてきた日本人に根付く価値観を考える。
愚かな選民意識
底辺職、ドカタ、などという時、その意識は二重に愚かだ、ということを考えていた。
まず、人間が持っている固有の能力というのは本当に複雑で、
例えば絵が上手い人、言語化が上手い人、
コミュニケーション能力が高い人、身体能力が高い人、
他にもたくさんの細かい能力(鼻毛を抜くのが上手いとか)が、それぞれ等しい価値として、
我々の体に備わっている。
ちなみに僕は太るのと痩せるのが得意だ。5月から13キロ痩せたし、油断するとすぐ100キロを超える。
ところが、農耕定住文化から、民衆と税の管理、大規模な社会形成を経て、
言語化能力だけが突出して評価されてきた。
文章行政が始まって幾千年、いまだにその文化が続いてるが、
それはたまたま社会が単一の軸として定義したものを本質だと勘違いしているだけだ、ということは、
最近広く言われてきたと思う。
マイケル・サンデルの講義とか有名になったしね。
だから、ドカタを蔑む人たち、忌み嫌うとまでいわないけれど、なんとなく嫌だなと思っている人たちの根底には、
勉強ができる人が偉いという誤った教育がこびりついてしまっているのかもしれない。
もう一つの勘違い
そもそも人生の喜びをどのように求めているか、ということは人それぞれではないだろうか。
人生には一般化された意味も幸せもなくて、
ただ唯一言えるのは、人間が最後に求めるのは健やかに生き、朗らかな心で、死期になったら死ぬことで、
そのためにとても大切なことは、心が自由であることだろう。
心が自由であるということは、その人その人が今の環境をまっすぐ見つめた上で、
やりたいと思ったことを、やると決めて、その通りやれる
ということであって、
それはひいては、「何を得たいか」ではなくて、
どのように在りたいか、という自分のままでいいられることであるから、
それが、自分の頭脳を世の中に試したいと学問の世界に羽ばたくことや、
世界中の人と交流しながらみんなの幸せを叶えたいと思うこと
はてまた自分の心の中に持っている小さな幸せを大切にできることのように、
どのように生きることがその人にとっての自由なのか、
その人の人生にとって価値があるのかということは、他人には推し量れない。
だから、それを単一的な軸(知的労働が偉いという誤った社会観、資本主義の残滓と拝金主義)によってのみ評価し断罪することは、
その人自身の中に自分固有の幸せや在り方が存在せず、相対的な軸によってしか人を判断できないという可能性がある。
したがって、先述の人間の能力に関する潜在的な勘違いと相まって、
ドカタを蔑む人たちは、二重に勘違いをしている。
なんならそういったことは社会学や人文学や認知科学、神経生理学等に軽く触れていけば辿り着くものでもあるので、
勉強不足を露呈していると言えなくもない。
50年くらい経つとなんかそういう考えが浸透していくんだろうけど、
ドカタという言葉にまだまだ違和感がない現代日本、
変わるのはもう少し先かな、と思っている。
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