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読書記録2022 『真田太平記1』 池波正太郎

 池波正太郎さんの旧居は、今の住まいからほど遠くないところにあった。
 今のところに引っ越してきた当初はまだ当時のお住まいが残っていたが、今はすでに別の建物が建っている。
 お住まいの近くの地蔵堂の柵には池波さんの名前が彫られていて、池波さんが寄進者の一人だったことを示している。

 学生の頃から池波さんの時代小説を愛読していたが、鬼平犯科帳と真田太平記は老後の楽しみにとっておこうと、ずっと読まないでいた。
 鬼平犯科帳は今でも読むのをこらえているが(全巻、手元に揃ってはいる)、真田太平記は我慢しきれずに30歳になるかならないかの頃に読んでしまった。
 今回はそれから四半世紀が経ち、細かいところの記憶がしっかりと曖昧になっているとわかって、再度読み返すことにしたというわけだ。

 時代小説と歴史小説の違いは、前者が当時の文化や環境を仮借した中で新たなストーリーを作るのに対して、歴史小説は史実を改変することなく、原因と結果の間にあったかもしれない出来事や物語で史実を豊かに補強する点にある。
 司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を例に取れば、坂本龍馬は千葉道場に入門し、やがて土佐藩を脱藩し、勝海舟の門人となり、寺田屋で襲われ、妻のおりょうと天の逆鉾に登り、薩長同盟を実現したのち、近江屋で暗殺される。これが表面的な史実だ。これらの出来事の合間にはなにがしかの変遷、出来事、エピソードが無数にあって、それらを編みつつ、最後の暗殺されるところまで話を持って行く。これが歴史小説である。

 真田太平記は歴史小説の体裁を取りつつも、司馬遼太郎よりも自由に物語を創造して、戦乱の世を生きた真田の一族を描く。
 司馬遼太郎は歴史小説の第一人者だが(決して好きな作家ではないが)、池波正太郎は歴史小説の枠組みの中にちゃんと時代小説を持ち込んでいるように思える。
 その分だけストーリーが豊かで、作中で綴られるストーリーに惹かれる部分が大きい。読み物としては面白いが、司馬作品のように歴史の勉強の一助になる要素はいくらか薄い。

 真田太平記は週刊誌に連載された小説だったと記憶しているけれど、とにかく全12巻もあるわけだから、週刊誌への連載がどれだけ長く続いたか、驚くばかりだ。
 何より毎週やってくる締め切りにきちんと合わせて、ひたすら書き続けていたという事実には驚嘆するばかり。
 今年の指針に「できるだけ飽きない」と掲げたけれど、全12巻分を連載している間、よくも飽きなかったもんだなと思ってしまうのである。
 さすがは大池波と感心するばかりだ。
 続きもすぐに読みたいところだが、ちょっとだけ間を開ける。読まねばならない本がすでに積み上がっているから仕方がない。多少間が空いてもすぐにのめり込める安心感があるから、きっと大丈夫だ。

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