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蜂蜜パイを読む日

 読書量についてはまあまあの自信がある。
 これまでに読んできた量もそうだが、現在いま読むスピードや量にしてもまあまあいいセンを行っているんじゃないかと思う。
 自信ありげに言ったところで、僕の読書量が出版業界を支えるようなものではないし、テレビはあまり見ず、ゲームは一切しない僕にとっては「そうしたものの代わりに読書があるんですよ」ぐらいの意味しかない。多分。

 乱読傾向のある中で、決まって再読する小説がいくつかある。
 同じような小説を立て続けに読んで飽きたときの気分転換だったり、退屈な小説を読む羽目になったときの口直しで読むことが多い。
 だがそうした再読ラインナップの中で、村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』はかなり特殊なポジションにある。なんの予感もなくただ唐突に「あ、読まなければ」という気分になるのだ。
 短編集の全てを読みたいわけではない。収録されている最後の短編「蜂蜜パイ」だけを猛烈に読みたくなるのである。

 どうして「蜂蜜パイ」だけを読みたくなるのか、理由はまったくわからない。強いて言えば、夏にたくさん汗をかいた後に梅干しが食べたくなるような、蕎麦屋の店先で嗅いだ出汁の匂いに惹かれ、いても立ってもいられずに店に入ってカツ丼を注文してしまうような奇妙な切迫感がいつもある。
 そして10分もかからないうちに無事読み終えて、乾きが満たされたような気分になる。

 僕の再読には傾向らしきものがあって、それは僕の精神状態となんらかの形で紐付きになっているように感じる。
 決まって再読するのは佐藤賢一の『双頭の鷲』、村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』、星新一の『明治・父・アメリカ』、片岡義男の『散っていく花』、アーウィン・ショーの『夏服を着た女たち』、ポール・オースターの『ブルックリン・フォリーズ』といった小説たちだ。
 これらに共通するのはどれも僕にとって「蕎麦屋のカツ丼」的なものということ。読みたくなるのに理由はない。ただ唐突に読みたくなるといったシロモノだ。

 その一方で、要注意であるものもある。
 精神状態が不安定な時(しかも不安定であることを自覚していない時)に限って読み返したくなるものがあるのだ。
 その極めてシンボリックな例が村上春樹の『羊をめぐる冒険』で、これを読みたくなってきたら自分で「これはまあまあヤバい状態に近い」と自覚するサインになっている。
 まずは落ち着いて古典落語の全集なんかを読み返してみたり、深く沈まないように浮力をつけ、バガボンドやスラムダンクみたいに別な角度から素手で魂を掴みにくるようなものに没入する。
 大抵の場合はそれで軽傷化するのだけれど、一度読みたいと思ってしまったものはなかなか消えない。そこでそれまでの対症療法をすませた上で、読み直すことになる。
 ただし『羊をめぐる冒険』を単体では読まずに、必ず『ダンス・ダンス・ダンス』まで通して読むこと。そしてその直後には脱力しきった村上春樹のエッセイを読むこと。そこまでの準備をして読むようにしている。
 エッセイは『ランゲルハンス島の午後』でも『村上ラジオ』でもいいのだけれど、故安西水丸さんの脱力100%のイラストが楽しい『村上朝日堂』を読むことが多い。しょーもないことをしょーもない見方で書いていて、もちろん面白く読むのだけれど、どこかに「アホやなあ」とエセ関西弁混じりの感想が浮かんで、ヘヴィだった頭や心があまりの馬鹿馬鹿しさに軽くなるというメカニズムなのである。
(そして最後には「今日のところはこれくらいで勘弁してやるか」とめでたく収まる)

 と、どうでもいいことを書いてたら蕎麦屋でカツ丼が食べたくなってきた。これは困った。明日までは我慢。

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