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カタカナ言葉が嫌い

カタカナ言葉が嫌いである。

長く使われてきた和製英語はともかく、会話の中に意味もなくカタカナ言葉がやたらと使われ出すと、途端に聞く気も話す気も失せる。

IT業界やベンチャー企業に多いとは聞くけれど、最初に使った誰かは語感の新しさで耳目を引こうとしていただけなのではないか。
単純に言えば格好をつけているだけで、酷い言い方をすれば、ただのボキャ貧。日本語で説明するだけのボキャブラリーがないだけなのでは、と攻撃的な気分になるのだ。

どうしても対応する日本語がなければ、そのまま使うのも仕方がない。
だが、昨今のカタカナ言葉の大半には、すでに対応する日本語がある。
わざわざカタカナで言い換えなくても済む。
誰も「ナンバープレート」を「番号板」と言えと言っているわけではないのだ。
昨今の濫用ぶりは、「銭湯の下足箱」を「パブリックバスのシューズボックス」と言ってるように滑稽だ。

小説の良さは言語に拘束されているところだ。
どんな書き方をしても自由な反面、読まれなければ意味のない小説は、伝わることが最優先。可能な限りの技巧で描写しなければならないと、書かれる以前から宿命づけられている。

セリフの中にカタカナ言葉が登場することはあっても、一般に意味が通らないものであれば、地の文で必ず説明される。
会話と会話の間が説明の繰り返しでは、ただのカタカナ用語集だ。小説として成り立たない。だから、現実にはカタカナ言葉が使われている場面であっても、小説的に修正される。
実に気分がいい。

どこかで聞いた話だけれど、日本のように、すべての学問を母国語で学べる言語はとても少数なのだそうだ。
物理も数学も、すべての学問がどのレベルでも日本語で学び始めることが可能だ。そのために外来語に相当する言葉をひねり出してきた。
福沢諭吉は「Freedom」を「自由」と訳し、正岡子規は「Baseball」を「野球」と訳した(訳してないらしいけど)。

ないものを外から持ってきて、さらに良いものに改変してしまうのは、日本の文化の得意技だ。
「カイゼン」というのは、いろんなところで日本語のまま、本来の意味で使われているとも聞く。
そういう土壌の場所に、ただ格好いいというだけでカタカナ言葉 —— 僕は雰囲気言葉と呼んでいる —— を使うのは、やはり言語能力の低さを、看板掲げて喧伝しているように思えてしまう。
もしかしたら文章書きのひねた感覚ゆえのことなのかもしれないけれど。

とはいえなんでも日本語になってりゃ良いというわけでもない。
言葉をなんでもかんでも略す風潮はカタカナ言葉と同じぐらい嫌いだし、スパークリングワインを「泡」と言うなど、手抜きか格好付けか、流行に乗せられてるだけにしか見えない。

僕が好んでカタカナ言葉を使うことは、この先もないだろう。
でも、世界のすべての人が豊富な語彙と美しい言葉の使い主だと困ったことになるのだから、ひどい言葉の有り様に今はありがたいのかもしれない。
神経をすり減らすような現状をありがたがるのも変な話だけれど。

と、意図的にカタカナ言葉を極力使わずに書いてみたけど、これはこれで疲れる。

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