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片付けと永久運動

今日はいつもに増して集中力が散漫で、文章を書くどころか、本を読み続けるにも気が散りがちで、仕方なく自称「震度6強」の部屋の中をボチボチと片付けていた(半ば自棄気味に「国土再生服運動」と呼んでいる)。

我が住まいの目を覆わんばかりの状況はひとえに部屋の広さと本の量のアンバランスさに起因するのは間違いのない事実。誰にも見せることなどないけれど、誰が見たって本が多すぎる。大半は娯楽として読んだ小説ばかりだから、処分しようと思えば処分できなくもない。だが流れ星並みのスピードで絶版にする出版業界の様子を考えると「読みたくなったら、また買えばいいや」というわけにもいかず、残すか否かのトリアージをしているだけで片付けが終わってしまうのは確実なのである。

熱しやすくて冷めやすく、集中力には欠けるくせに、熱中すると見境がなくなるという始末に困る程度は粗大ゴミ並みの性格だから、流行りのときめくとかときめかないとかというやり方でお店を広げてしまったら、広げたままで終わって呆然と立ち尽くす羽目になる。そもそも折り返し地点を随分前に通り過ぎた今になってまだ、何かにときめくとかときめかないとかと考えていたら、片付け以前にそれだけで十分不気味である。
というわけで短時間で決着の着く範囲でしか掃除も片付けもしない。

今年の年頭、いくつかの行動指針のようなものを密かに掲げてみた。
その中に「完全を目指さない」「長時間続けない」という二つがある。
スローガンみたいなものだから、何が何でも厳守なんてこれっぽっちも思っていないが、自分の性格からすると、この二つは結構ツボをついている。「熱中せず、ほどほどに」なんて目標を子供が掲げたら、親なら夜中のキッチンで子供の行く末を案じるようなシロモノだ。でも何かを完全にやり遂げるなんてそうそうできることではないし、少なくとも完全性と片付けを生活の中で結びつけるほど、現代社会を生きる我々には時間の余裕はない。
仮に「完全を目指して長時間続けて」片付けをしたら、それで満足してしまって、「次に片付けをするのは3年後」なんて言い出しそうである。

そんなわけでコーヒーを飲んだり、スケッチブックに落書きをしたりしながら、今日、そこそこ片付けが済んだのはタテヨコ70センチほどのスペースだけなのであった。
全部が終わる前に、最初に片付けたあたりが散らかりそうなほどのノロさだ。毎年塗り替えることが決められていて、全部の作業に12ヶ月かかるゴールデンゲートブリッジの塗替えように、ほとんど永久運動に近いものがあるなあ、と落書きをしながら思ったのだった。

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