読み方は変わる/『芝生の復讐』を再読していて気づいたこと
唐突にリチャード・ブローティガンの『芝生の復讐』を読み返したくなったのだが、例によってどこにしまいこんだか分からず、発掘してる暇があったら図書館の方が早いと、いつもの図書館頼みで早速借り出してきた。
と言ってもお目当の『芝生の復讐』を見つけたのは3つ目の図書館。
いつもならネットで最寄りの図書館へ移送してもらって借り出してくるところを、下調べもなく当てずっぽうで行ったもんだから、仕方がない。
そもそも「図書館ならブローティガンぐらい当然あるだろう」という思い込みが間違いの元なのであった。
今では区内の図書館内で本の移動があるのは当たり前。取り寄せればどこでも受け取れるし、どこでも返却できる。
だからベストセラーや人気作家の新刊でもなければ、全部の図書館に同じ小説があるとは限らないし、10巻揃いの小説があちこちに散らばってるなんてことも珍しくない。区内の図書館の共同保有みたいな感覚なわけだ。
ようやく借り出してきて、読みはじめたのはいいけれど、10代の頃に読んだときのような感じが蘇ってこない。どことなく読みづらいのだ。
翻訳が変わったわけでもないし、先日書いたホームズの古い翻訳のように時代のズレがあるわけでもない(それでも40年近くは経っているわけだけれど)。
埋めがたい不一致感というか、モノマネ芸人と本物の違いのような他人の空似のような違和感というか、そうしたものが過去と今日との間にそびえ立ってるような感覚が先に立ってしまって、途中で読むのをやめてしまった。
原因は翻訳した文章にあるのかもしれないと気づいた。
昔読んだときのことが再現できないのだから、正しい比較にはならないのだが、かつて気づかなかった日本語のアラがいま読み返すとやたらと目立つのだ。
ここの言い回しは変だろうとか、ここは原文は違うニュアンスの書き方をしていたんじゃないかとか、オリジナルを隣に置いて見比べているわけでもないのに、翻訳された文章を読んでいるだけで細かいところに引っかかってしまう。
たくさんの小説を読んできた蓄積で、僕の中に日本語で書かれる小説的な言い回しの引き出しが増えたからなのかもしれない。
それは別に文章を読む能力が上がったのではなくて、参照する対象が増えただけのこと。昔は比較も持たないまま、目の前にある文章を受け取るだけだったのに、今はそうしたフィルター越しにしか読めなくなっていて、そのせいで目詰まりをしているのかもしれないと気がついた。
こうなると読書経験が多いのも良し悪しだ。
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