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文章の筋力トレーニング

 先日、芥川賞作家の宇佐見りんが元ロイヤル・バレエ団のプリンシパルで、今は国立劇場の芸術監督を務める吉田都と対談している番組を見た。
 対談の中で、宇佐見さんが日々のトレーニングとして何か目に止まったものを描写する練習を続けていると話していて、以前、自分でも随分続けていたなあと思い出した。

 練習と言っても特別なことは何もしない。ただ目に映った情景を文章にするだけのことだ。
 余計な比喩や慣用句は極力使わず、写真でいうところのスナップショットのように情景を文章にトレースする。
 説明でも実況でもないことが重要だ。それではニュースになってしまう。やるのはあくまで情景描写だ。

 以前は、毎日の終わりに、その日にあったことの中から一つを選んで、ノートに書く習慣があったのだけれど、飽きっぽい性格が災いしてやらなくなってしまっていた。
 習慣をなくしたままだった僕が言うのも説得力がないのだが、これは本当にいい練習になる。少なくとも僕には筋トレとまったく同じ効果があった。

 記憶から抜け落ちているところは想像で補い(細部まで現実を正しく写し取ることが目的ではない)、ひとつのシークエンスとして完成させる。そうすることで自分が何に注目し、どのように映ったかがはっきりとわかる。
 わからないようなら、描写が甘いか、描写力が足りないことを思い知らされる。
 宇佐見さんと吉田さんの対談を見て、随分と間があいてしまったが、衰えた筋力を取り戻すために、先の週末から再開している(人の影響はまず受けてみるのが信条なのだ)。

 話は飛ぶのだが、先月から地上波での放送が始まったアニメの『平家物語』を欠かさず見ている。
 いまどきの派手なアニメーションとは対局の、省略し、余白が多く、台詞ではなく全体で語る出来が素晴らしい。
 昨晩の放送では平重盛の臨終の場面が描かれた。
 アニメでは原作にはない架空の少女「びわ」を琵琶弾きとして登場させ、この少女の目を通して平家の衰亡が描かれる。その情感が原作の良いところをさらに際立たせた感じで、夜中だというのにそのまま情景を描写してしまった。
 アニメのノベライズは台詞から何から、映像に即して書き起こすのだろうが、筋トレなので自分のイメージが多分に混ざる(混ざらなければトレーニングにもならない)。
 現実の肉体の筋力低下はトレーニングができない今となっては、もはや取り戻すことはできないが、文章の筋トレはまだまだできる。
 ジムに週に8回通っていた頃の気分を思い出して、またしばらくの間、筋トレを続けようと思っている。
(昨晩、勢いで描写した文章は以下のようなものです。間違いなくスナップショットだなあ)

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 重盛は天井を見上げたまま微動だにしなかった。
 びわには重盛の目にはもはや何も映っていないように見えた。天井に描かれた彩色も、燭台の炎のゆらめく影も映らず、ただ重盛は宙空だけを見ている。俗世とびわには手の届かない世界との狭間に重盛はいる。そしてゆっくりと俗世を離れようとしている。
 音も言葉もない中、傍においた琵琶のことも忘れ、びわはただ重盛の顔を見つめていた。
 刹那、重盛の心が俗世を振り向いたように目が動いた。
 びわには重盛が自分を見ていることがはっきりとわかった。
 かつて重盛と並んで見た雪景色の灯篭ような弱く儚い光が重盛の目には残っていた。
 びわは重盛の枕元ににじり寄り、布団の内にあった手を取った。
 まだ暖かい。
「重盛!」
 重盛はかすかに顔を傾け、目だけで笑った。
 ただ宙空を見つめていた重盛の目には、今、びわが映っている。
「重盛、逝くな!」
 びわの手の中で重盛の指がわずかに動いた。
「……重盛、我は何もできん。何もできん」
 びわの目から涙が零れ落ち始めた。
「びわ……泣くのはやめなさい……琵琶を聞かせておくれ」
 もはや言葉を発する力など残っていないと思えた重盛の声が小さく響いた。
 びわは涙を拭うこともなく、目を閉じることもなく、重盛を見つめたまま強くなんども頷いた。
 握った重盛の手をそっと離し、琵琶を手に取った。
 この琵琶の音が重盛を俗世から見送る最後の調べになる。
 びわは琵琶を構え、深く息を吸った。
 静かに強く、大きく、そして優しく、びわは弦に撥を当て、奏でた。
 重盛が横たわるこの部屋から、重盛の目には映るであろう怨霊たちをしばし追い払えるように祈りながら、びわは弾き続けた。

 いつの間にか重盛の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
 そして一つ、深く深く息を吸い、重盛は俗世を離れていった。

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