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断片小説集 9

 僕はいま3匹の猫と暮らしている。
 三毛猫のチャコ、サビ猫のザクロ、黒猫のコタキ。
 元々は3匹とも庭に迷い込んで来たまま居着いた猫たちだったが、共に暮らすようになって3年になる。
 3年も経てば立派な同居人(同居猫?)だ。

 彼女たちの名前は、実はかつて生家に居ついた黒三毛のチャミが産んだ子供の名前だったものだ。
 チャミは裏の家の主人が飼っていた猫だった。
 奥さんに先立たれた老主人が突然亡くなられた後、いなくなってしまった猫を、独り身の生活を助けていた住み込みのお手伝いさんがしばらく近所を探していると耳にした。
 我が家にもお手伝いさんが訪ねてきたが、結局、チャミは見つからなかった。
 そして、お手伝いさんが次の仕事を見つけ、裏の家を去った数日後、チャミは我が家に姿を現したのだった。

 母は生来の猫嫌いである。
 飼っている文鳥が食べられてしまうからとか、目が気持ち悪いとか、爪とぎで家が傷だらけになるとか、さまざまな理由を並べ立てるが、その実、抜けた毛を掃除するのが面倒というのが主な理由であることはわかっていた。
 文鳥とてついばんだ餌をカゴの外に散らかす。母は散らかった餌を毎日いそいそと掃除するのだから、抜けた毛がどうこう以前に、やはり猫が嫌いなのだろう。
 僕はチャミを託されたような気がした。
 だが猫嫌いの母がいる実家で無理に飼ったところで、母が適当に扱って逃げるように仕向けてしまう予感がした。
 そんなわけで僕は実家を出て伯母の家に移り住むことになった。

 独身主義で、キャリアウーマンの先駆者のような伯母は、還暦を目前に控えたある日、「移住することにしたから、アナタ、この家使っていいわよ」と言い残して、突然、コペンハーゲンに移住してしまった。
 半年ほど経って「こっちで結婚したから、私が死んだらその家はあなたにあげる。じゃ、よろしくね」とだけ書かれた絵葉書が届いた。
 かくしてチャミと家賃なしの住人兼管理人の生活が始まった。

 やがてチャミは3匹の子猫を産み、半年ほど熱心に子育てをして、あっけなく死んでしまった。
 自分の役目はここまでと言っているような、亡くなった老主人との再会を楽しみにしているような、静かで穏やかな死だった。
 チャミと3匹の子猫を飼う余裕はなく、子育てが一通り終わったらチャミの子猫たち —— 三毛猫のチャコ、サビ猫のザクロ、黒猫のコタキはそれぞれ近所に引き取られる約束ができていた。
 チャミがいなくなり、子猫たちは引き取られていき、僕は純粋な一人暮らしになった。
 2代目のチャコ、ザクロ、コタキがやってきたのはそれから20年近く経ってからだ。

 3匹が家の庭に姿を見せるようになったのは、夏が始まる少し前のことだった。
 3匹とも首輪はなく、それでいて生まれも育ちも野良という感じはしなかった。擦り寄ってくるわけではないが、怖がるわけでもなく、どことなく人間に慣れているように感じた。
 ある日、3匹揃って自分の居場所に帰ってきたように姿を現し、慣れた足取りで庭を横切って、少しだけ開いていた掃き出し窓から迷うことなく部屋に上がってきた。そして狭い縁側で窓越しの日差しを浴びながら昼寝を始めたのだった。

 動物病院で検査をしてもらったが、大きな病気はなく、栄養不足なだけでひとまず健康な状態だった。年齢は3匹とも2歳くらいだろうと医者は言った。
 チャコの三毛の柄も、ザクロの毛の混じり具合も初代とは違う。
 コタキも、初代コタキが黒猫らしい黄色い目だったのとは違い、子猫の時から変わっていないような青みがかった色をしていた。
 彼女たちがどこからやってきて、どうして我が家に居着いたのかはしらない。うちに来るまでの生活も、彼女たちが姉妹かどうかすら僕にはわからなかった。だが彼女たちが同居人になったことで、僕の生活は様変わりした。
 懐かしく、それでいながらどこかしら新鮮な、ありていに言えば20年分の時間が一気に巻き戻ったような感覚だった。
 もちろんそれだけでは終わらなかった。
 猫と暮らすというのはそういうことなのだ。

(『三姉妹冒険譚』)

*        *        *

 わたしが自分のことをスパイだと気づいたのは結婚して半年ほどがたった頃のことだ。
 平凡なサラリーマンの父とワイドショーと主婦仲間との茶飲み話にしか興味のない母との間に生まれたわたしは、どの角度から見ても凡庸な家に育った凡庸な娘の見本のような人間だった。
 平凡な高校生活を送り、有名でも無名でもない大学で役に立つのか立たないのか分からない勉強をして、平凡な成績で卒業したあとは、叔父の紹介で社名は知られているのに中身はさっぱり知られていない会社に入った。
 夫と知り合ったのもその会社でのことだ。入社して5年目。絵に描いたような、だが賞賛など一つもない、ありきたりな食品サンプルのような平凡な結婚だった。
 これまでのわたし自身を振り返ると、我ながらその平凡さに驚く。平凡すぎて驚くのではない。平凡すぎて呆れる部分の多さに呆れ、その重なり具合に驚く。どれだけ平らな道だと思っていても、そこには常にかすかな勾配はあるものだ。だがわたしの人生にはそのかすかな勾配すらなかった。あまりの平坦さに、すばる天文台の電波望遠鏡の反射鏡の歪みの少なさを知ったときには共感すら覚えたほどだ。
 多少変わったことがあるとすれば、15年ものあいだ、1日も欠かさずブログで日記を書き続けていることぐらいだ。「文章が上手になるから」と叔父の勧められて始めたものだ。
 わたしにとっての叔父はとても頼りになる存在だった。分からないことは叔父に聞けばなんでも教えてくれる。そして叔父が言うことはほとんどがその通りになった。
「日記だからといって、私はこう思ったなんて書かなくてもいい。小さなことに目を向けて、あれ?と思ったことをメモしておくだけでも十分なんだ。世界は毎日少しずつ変化していく。毎日、窓から見える景色のことをメモしておくだけでも20年たったら素晴らしい記録になっているものなんだよ」
 叔父は優しく、柔らかく励ましてくれた。
 自分の意見を言うことが苦手だったわたしは、叔父の励ましの通りに、ただただ毎日、日々の事実だけを書き記していった。それは「わたし」という個人の目線に絞りきった定点観測のようでもあった。
 そうして私が毎日欠かさずブログを更新することが、叔父が巧妙に仕組んだ仕掛けそのものだった。
 わたしは一度たりとも意識することなく、いつの間にか諜報活動の一部に組み込まれていたのだった。

(『専業スパイ主婦』)

*        *        *

(MEMO)
何だか2つとも「断片」ではなくて、ただの「書きかけ」になってしまったが、これ以上書き進めると、もはや断片とは言えなくなりそうな上に、長く長く続きそうな雰囲気なもので、続きというか、残りは手帳にメモをして、発酵するまでしばらく寝かせておくことにした。

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