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ショートショート|疑いとごまかし

 蛇口から流れる水の音がうるさい。
 夫の声が聞こえない。

「なに?」
「今日、晩飯いらないから」
「はーい」

 わざわざ水を止めて、ほんの数言の会話を終える。また、蛇口をひねる。泡のついた食器を、水しぶきが流していく。
 そして、ジャケットを羽織って玄関を出て行く夫の姿を背中で見送った。

 結婚生活、十数年目。
 平日の朝の、何気ないやりとり。
 これといった不思議も、面白みもない、ごく日常的なありふれたやりとりだ。

 いや、違う。


 ――また?


 内なる声に聞き返されて、わたしは洗い物の手を止めた。
「今日、晩飯いらないから」
 つい最近も、夫から同じ台詞を聞いた気がする。いや、今月に入ってから、もう何度目だろうか。

 急にこみあげてきた得も知れぬ不安に、家事の手が止まる。

 そういえば、残業時間が長くなった気がする。
 そういえば、休日のゴルフも増えた気がする。
 出張も、飲み会も、急なイベントも。

 考えれば考えた分だけ、「気がする」の数は無限に増殖していく。

 いつからだろう、ふたりがベッドを供にしなくなったのは。
 いつからだろう、上辺だけを滑っていく会話が当たり前になりはじめたのは。

 あの日から、だ。

 わたしは心当たりに行き着いた。
 それは、夫の乗る通勤列車が人身事故で長時間運行を停止した日だった。
 よほど派手な被害だったのか、復旧作業に時間を要していたことを覚えている。

 夫が巻き込まれたかもしれない。
 その日も理由なく不安になったわたしは、すぐさま連絡を取ったのだった。しかし、夫からは既読も返信もなかった。
 気が気でない思いでテレビとニュースアプリにかじりつき、結局、夜まで祈り続けた。通勤ラッシュ時刻に発生した事故は、退勤ラッシュ時刻まで、電車の運行を停止させた。

「ただいまー」

 そんな張り詰めたわたしの思いを、いつもどおりの夫の声が解いた。
 つかれたー、とあくびを吐き出しながら、ジャケットとネクタイを同時に脱いでいく。

「え、事故? そんなんあったの?」

 何も知らなかった口ぶりで、夫はニュースを見ながら、やべー復旧ついさっきかよー、とか口走っていた。
 たまたま、取引先に直接向かわなければならない日だったため、いつもとは違う電車に乗っていた、というのが彼の言い分だった。スマホは途中で紛失したのだ、と。

 あのときは、夫が無事だったことに安心しきってしまい、それどころではなかったけれど。
 よく考えれば不自然な点も多い。

 自宅から取引先に直接、など、あの日以外にあっただろうか?
 仮にあったとして、自分の通勤経路の大事故に、誰からも何も言われなかったのだろうか?
 そもそも、退勤時にはまだ電車は運行を再開していないはずなのに、夫はどうやって帰ってきたのだろうか。

 疑いに支配されたわたしは、気づくと家中を捜索していた。
 クローゼットの中、出張用トランクの中、クリーニング済みのスーツのポケットまで、あらゆるところを捜した。

 捜した。

 捜した。

 捜した。

 何を?

 わたしは、夫の、何を疑っているのだろう。
 家中を捜し回って、夫が何をしでかした証拠を見つけようとしているのだろう。

 浮気?
 まさか。

 妻に専業主婦を任せられる程度の収入はあっても、30代半ばで、いまだに平社員。
 敏腕なわけでも、気が利くわけでもない。リーダーシップもプレゼン能力も平凡。
 家事はダメ、趣味はゴルフだけ。タバコ、酒、ギャンブルも大いに嗜む時代錯誤っぷり。

 その上、最近は若ハゲも中年太りも目立ち始めてきた。
 わたし以外の、誰が好きになってくれるっていうの。
 浮気?
 冗談やめてよ。

 冗談、やめてよ。

 その夜は、何時間でも待つつもりでいた。
 本当に、何時間も待つことになった。

 一晩中、ダイニングチェアに座って待っていたわたしの前に夫が帰ってきたのは、照明をつける必要もないほどに空が白みはじめる時間だった。

「何、してたの?」

 先に口を開いたのは、わたしだった。
 自分でも知らない声が出た。尖っていて、苦しそうで、ブサイクな声。

 夫はまだ、何も言わない。黙ってわたしを見ている。

「誰と、いっしょだったの」
「誰も」

 今度は、即答だった。

「誰も、いっしょじゃないよ。ひとり。ぶらぶら、してた」
「信じられると思う?」

 わたしの知らない声が追求を続ける。
 夫は正面の椅子にゆっくりと腰掛けた。
 深い息をつき、テーブルに両肘を乗せる。

「ごまかせると、思ったんだけどなぁ」

 わたしの目から、こらえていた涙が、一筋だけこぼれてしまう。
 自白だ。
 彼は、自白した。
 自分の罪を認めてしまった。

「……いつから?」

 悲しさと悔しさで、いつもの自分の声に戻った。知っている声だ。泣き虫の声だ。

「味噌汁、残ってる?」
「え?」

 夫は質問には答えず、とぼけたことを言う。

「残ってたら、入れてくれない?」
「なんで今」
「いいから」

 お互いに言葉尻を噛み合ったあと、わたしは渋々と味噌汁を椀にすくった。
 手が震えそうになる。
 おたまを必要以上に握りしめて、冷え切った味噌汁を注いだ。

 椀を手渡した夫は、ゆっくりとした所作で一口をすすった。
 ずずっ、と美味しそうな音がして、はあ、と息をついた。

「美味いなあ、相変わらず」

 目を閉じて、しみじみ、といった様子で堪能している。
 夫は、話題を逸らそうとしているように見えた。
 ごまかされるものか。
 わたしは気を強く持つことを決意する。

「ごまかせると思ったんだけどなぁ」

 一瞬、わたしの目を見て、夫が頭をかく。
 やっぱり。ここへ来てまだ誠実になってくれない夫に、わたしは2筋目の涙をこぼす。

「……前に、列車事故があっただろ。人身事故。えらく長いこと、運行停止していたやつ」

 小さな沈黙の後、夫が本題に入った。
 やはり、あの日だ。やはり、あの日になにか、きっかけがあったのだ。
 わたしは続く言葉に、覚悟を決める。

「あの事故の被害者って、実は俺で」
「は?」
「いや、違うんだ。自殺とかじゃなくて。ちょっとバランス崩してホームに落っこちたとこへ、たまたま特急列車が……ほら、電車って、停めたら、賠償金えらいことになるっていうじゃん。だから、俺、お前に迷惑がかかると思って、それで」

 話の筋が見えない。
 電車との人身事故の被害者が、自分だと言うのだろうか。

 こんなにピンピンした人が。
 事故当日も、いつもどおりの声で帰宅したこの人が。

「復旧が遅れてたのもさ、実は俺のせいで。だってさ、あるはずの死体がいなくなってんだもんな。そりゃ大騒ぎだわ。そんでさ、頑張ってさ。事故なんてあっていない風にごまかしてみたんだけどさ。やっぱ、だめだな。俺。意思も弱くてさ、何回も気持ちが折れそうになってさ。そのたびに嘘ついて、バレないように人目のつかないとこに潜んで、ギリギリのところで堪えてたんだけどさ」

 頭をかきむしる夫のおでこに、黒い線が入った。
 髪の毛だろうか。

 いや、違う。
 あれは、ひびだ。
 夫のひたいに、亀裂が入っている。

 かきむしり続ける頭からは、水漏れのように血が飛沫をあげはじめる。

「ごめん、そろそろ限界みたいだ。全部白状したら、気が抜けちゃった。やっぱ甲斐性ないな、俺。でも、もう大丈夫だろ。さすがに、今ここで死んでも、損害賠償、ないだろ」

 べりべり。
 めりめり。

 人間が発することのないはずの音が、夫の内側から響いてくる。
 夫の身体が、風船みたいに膨らんでいく。表面の亀裂が大きくなる。

 異形と化した夫の手が、味噌汁の椀を掴む。
 ゆっくりとした所作で一口をすする。
 ずずっ、と美味しそうな音がして、はあ、と息をついた。

「うまいなぁ、お前の味噌汁。もっと飲んでおけばよかったなぁ」

 そうつぶやいて、夫は破裂した。
 凄まじい音とともに。
 電車と衝突したみたいに、激しい勢いで。

 肉片と骨片と眼球と内蔵が飛び散って、夫のいなくなった家と、わたしの顔面を、真っ赤に染めた。

<了>

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