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ショートショート|アメーバ幼女

 ある日の仕事終わり。おれは駅前で、迷子を見つけた。大泣きしているので近づいてみると、人間ではなく、アメーバだった。
 まだ幼い。5歳か6歳くらいだろうか。女の子の姿をしている。

「ママあああーーー、ママあああああーーーーっ!」

 かわいそうに。心情では助けてあげたいが、現代社会的ややこしさの被害を被るのごめんだった。
 親切心から話しかけたせいで、不審者に間違えられた知人の話を思い出す。
 すまんな、幼女よ。日本人=親切は、すでに過去の神話と化したのだ。

 などと、胸の内で謝罪を述べながら通り過ぎようとしたところ、何やら異様な感触に苛まれた。体中が膜に覆われたような、水草に絡みつかれたような、浮遊感と重さが体を縛り付ける。
 そう。気づくとおれの全身に、アメーバがまとわりついていたのだった。

「なっ、おい、こら。やめなさいっ」
「ママあああーーー、ママあああああーーーーっ!」

 だめだ、完全に平常心を失っている。
 顔を真赤にして喚きながら、おれのスーツの表面を這いずり回っている。大粒の涙が革靴に落ちて、膜を張った。
 ため息ひとつ吐いて、おれは観念する。

「……ママと、はぐれちゃったの?」
「ぐすっ、ぐすんっ……うん」

 演技かと思うほど、瞬時に泣き止むアメーバ幼女。
 全身をぷるぷるさせて涙を出し切ると、おれの胸のあたりからにゅるーんと顔がせり出した。目と目が、ばっちり合う。

「お名前は?」
「わかんない」
「お家は?」
「わかんない」
「ママとは、どこではぐれちゃったの?」
「わかんない」

 困ってしまってワンワンワワン。
 アメーバ幼女は自身の情報を、何ひとつ言語化することができなかった。
 そもそも単細胞生物にとって、人間のように個々を弁別するためのラベリングされた属性情報は不要なのかもしれない。
 迷子タグのようなものがついていないか、調べてもみたが、ねばねばした粘液以外に何も持ち合わせていないようだった。

 こういうときは、交番に預けるに限る。
 落とし物と迷子は警察案件、と相場が決まっているじゃないか。

 ――などというのは、安直すぎる考えだった。

「うーん、困りますねえ。アメーバは法律で保護されていませんし。ちょっとお預かりしてもどうすればいいか……」

 史上空前の奇妙な迷子を連れてこられて、交番勤務の警察官も困ってしまってワンワンワワンな様子だった。

 巡回ついでに母親らしきアメーバを捜してみます、と口約束を取り付けるのがやっと。
 ほぼ門前払いに近い対応で交番を追い出されたおれに、アメーバ幼女が心配そうな目線を向ける。

「心配するな、おじさんが絶対にママを見つけてあげるから」

 まとわりつかれ続けたせいで情が移ったのか、おれは今、心の底からアメーバ幼女を助けたいと思っていた。
 しかし、万策はつきかけている。
 文系出身のしがないサラリーマンなおれには、アメーバの生態についての詳細な知識もない。習性も知らない。
 警察にもさじを投げられた今、次の打つ手を絞り出すことすら困難、というのが正直なところだった。

 ベンチに座り、考え込む。妙案が浮かぶのを待つ。
 その間、幼女にはアイスクリームを買い与えていた。出会って以来初めて、彼女はおれの体にまとわりつくのをやめ、包み込むように広がりながらアイスにかぶりついた。全身を振動させながら、食べている。たまに頭がキーンとなって、おでこをペチペチしている。

「あっ、」

 と、急にアメーバ幼女が驚いたような声をあげる。
 次の瞬間、不規則に伸び縮みしはじめる。先端が震えたり、ちぎれたり、飛び上がったり、と不穏な動きを繰り返す。

「どうした!?」

 幼女の顔を覗き込む。透き通った顔に、苦悶の表情がにじみ出ていた。あぶら汗が粘液に弾かれる。

 まずい。いったい、何が起こったんだ?
 まさか、アメーバにアイスクリームは毒だったのか?
 知らねえよ、そんなこと。書いとけよ、パッケージの裏に。
 やばい、このままだとこの子、死んでしまう?
 迷子を助けるどころか、殺人者になっちまう?
 いや、アメーバを殺しても違法ではないか?
 ――そういう問題なわけがあるか!

「おい、大丈夫か。死ぬな、死ぬなよ」

 あたふたと狼狽し続ける、おれ。
 声をかけたり、顔のあたりを撫でたりするくらいしか、行動が思いつかない。

 行き交う通行人たちは、ちらりと横目で異常事態を見届けて、二度見もせずに行ってしまう。
 やはり、日本人=親切は、過去の神話だ。
 絶望に沈みかけた、そのとき。

 ぽんっ。

 と、小気味いい音とともに、腕の中の感触が無になる。
 アメーバが、蒸発した?
 いや、違う。

 幼女はいつの間にか、立ち上がっていた。
 しかも、ふたり。どちらも幼女で、まったく同じ顔。同じ背格好。同じ粘度。

 アメーバは、分裂したのだった。

「あっ、ママ!」

 片方のアメーバ幼女が、指さしながら声をあげた。
 そして、もう片方のアメーバ幼女に勢いよく抱きついた。

「ママっ、ママっ!」
「よしよし、いい子いい子。頑張ったねー。もう大丈夫よ」

 訳がわからず、呆然とするおれ。
 ふたりのアメーバ幼女が、タイミングをそろえて、おれのほうを向く。

「ありがとう、親切なおじさん! このとおり! ママが見つかったよ!」
「ええっと……、え? 今、分裂しなかった? したよね?」
「うん、した!」
「じゃあ、ママじゃなくて……、子どものアメーバに、更に子どもができただけなんじゃ……」

 つまり、孫アメーバが誕生しただけ、のはずだ。
 しかし、それはやはり、人間の感覚。
 アメーバに、ラベリングされた属性情報は通用しない。

「アメーバは単細胞生物だからね。分裂したとき、迷子だったアメーバの記憶が、分裂先の……この子の核に、移ったのよ。きっと」

 ママと呼ばれたほうのアメーバが、解説する。
 心なしか、さっきよりも少し大人びているような。

「はあ。で、君が、ママってことで構わない、と?」
「実際にママですもの。わたしがこの子を分裂しうみましたっ」
「はあ。いや、見てたけど。目の前で」

 あまりに突拍子もない解決策で、脳がついていけない。
 おれは、「はあ」を連発するだけのマシーンと化しつつあった。

 会話の停滞感を察したのか、二体のアメーバ幼女はぐにゅぐにゅちゃぷちゃぷと、せわしなく流動しはじめる。
 そして俺に背を向けたかと思うと、くっついたり離れたりしながら、仮足を伸ばして歩きだした。

「さようなら、親切なおじさん。この御恩は、いつか必ず」

 おれはまた「はあ」とだけしか返すことができず、小さく手を振りながらふたりを見送った。幼女たちの姿は排水口の中へと消えていった。

 アメーバの恩返しって、何だろう。
 バクテリアとか?

 おれは、あまり深く考えないことに決めた。
 体中がねばねばする。早く帰って、風呂に入ろう。

<了>

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