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ショートショート|「た」なのか「ま」なのか「や」なのか

 花火が打ち上がったときに発する掛け声「たまや」は、全てア段で構成されている。
 だから、言っている最中を切り取ってしまうと――たとえば、写真に撮られると――そのひとの発している音が「た」なのか「ま」なのか「や」なのか判断するのが難しい。

 なんて、どうでもいい気づきを胸に秘めながら、おれは土手沿いに自転車を止める。
 ここは、昼と夜の境目だ。もう一歩、会場側へ踏み出すと、とたんに夜になる。
 学生服の上着を脱ぎ、その一歩を踏み出す。
 3月半ば、春の匂いが漂い始める昼から、8月初旬、湿気のまとわりつく真夏の夜へ。
 観客の隙間を縫って、おれは会場の中心地へ足を進める。
 夜空を見上げる親子の足元に、たんぽぽが咲いていた。おれと同じ、昼からの侵入者だ。

 向かうは、屋台が立ち並ぶ花火大会。
 馬鹿みたいに多い人間の群れが、馬鹿みたいに揃って夜空を見上げている。
 真っ暗なキャンパスに浮かぶ、鮮やかな大輪。四尺玉のきれいな花火が、そこに存在をとどめている。

「よ。元気? 卒業証書、持ってきてやったぞ」
 おれは群衆の中から幼馴染の浴衣姿を見つける。毎日みたいに通っているせいで、迷うことはない。黒いロングヘアを括るピンクのリボンが目印だ。
 幼馴染は、「た」なのか「ま」なのか「や」なのか分からない口の形で、花火を見上げたまま、停まっている。その他大勢の群衆と同じように。夜空の大輪と同じように。

 2年半前の8月。
 この地域唯一の花火大会で、世界最大の花火が打ち上がった瞬間、会場の時間は停止した。
 それは”停止”と呼ぶ以外に表現しようのない現象だった。
 どれだけ時間が経とうと火花は散らず、夜は明けず、観客は微動だにしない。無理やり動かすことすら、できない。
 花火大会の会場周辺の空間だけが、すべての時間を停止させていた。

 おれの幼馴染も、その日から髪の毛1本、1ミリすら、成長していない。
 同じくらいだった身長も、頭ひとつぶんくらい差がついてしまった。男女が並ぶには、これくらいが理想なのだろうか、なんて馬鹿みたいなことを考える。

 横に並んで立ち、夜空に鎮座する花火をにらんだ。
 時間停止の原因は、現在のところ不明なままだ。けれどおれには、真っ暗な夜を魔王みたいに炎で照らす、あの人工的な輝きが諸悪の根源に思えて仕方がなかった。

「おれさ」

 停まった幼馴染の顔は見ずに、おれは言う。

「大学、地方に行くんだ」

 数日後に、引っ越しが決まっている。

「だからさ、もう毎日は来れないかも」

 幼馴染は停まっている。「た」なのか「ま」なのか「や」なのか分からない口の形からは、相槌ひとつ、返ってこない。分かっている。

「……一応、言っておくわ」

 幼馴染が停まりつづけているのは、分かっている。

「おれ、お前が好きだ。ずっと好きだった。多分、ガキの頃からずっと」

 イエスもノーも言えないのは、分かっている。
 絶対に傷つかずに済むことも、分かっている。

「……卒業証書は、お前のお母さんに渡しておくよ」

 勝手に勇気を出して、勝手に踏ん切りをつけて。
 それでおれは、彼女を見捨てて、ひとりだけ前へ進む。
 昼に戻る。
 未来へ向かう。

「さようなら。元気でな」

 別れの言葉を絞り出した。
 幼馴染は停まっている。「た」なのか「ま」なのか「や」なのか分からない口を開いたまま。
 花火を見つめて停まっている。

 おれは彼女に背を向けた。

 2年半、ずっと隣で彼女と手をつないでいる、名前も知らない男の姿は、見ないようにしながら。

<了>

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