みんな知らないところで

今回でノートの投稿を終わりにします。

そして、詩を書くという作業についても、

ここで一旦やめようかと思います。

理由はありません。とお伝えしておきます。

私は、小学生の頃から8年間趣味程度に詩を書き続けてきました。

それはとても短い時間です。

自分以外の他人のエピソード、

日々生きていく中で耳にする世の中の人たちの声や意見。

そして、何よりそれを聞いた自分がどう考え、何を疑問に思うのか。

文章や詩に現すということには、その中にさまざまな感情や意見、なんだって自由自在に取り込むことができることです。

説明の苦手な私には何よりの自信でした。

所詮、趣味です。

もう一度お伝えしておきます。

私が書くのは、全て趣味程度の詩です。

なんと自由なことでありましょう。


しかし、悲しいことにそんな自由さえ奪われてしまう世の中を生きる人たちもいることを、私たちはもっと身に染みて考えていかなければならないと思うんです。

幸いなことに、この日本では意見や考えを発信する自由、そして、その自由を尊重していこうという考えがあります。

それを守り続けてきました。

私も守り続けていきたいなと思います。

そして、主張という発信。

抗議という発信。

正義故の主張。正義故の抗議。

私は、そうして言葉の力を強く信じ、強く立ち向かう人々を心から称え、

そして自分もそういったことを信じ続ける一人として、これからも生きていきたいと思ってます。


けれども、今。

そんな正義や優しさでは立ち向かえどもたどり着け得ない。

止めることすらできないという現実を、重く受け止めなければいけない事態にさらされているなと、日々のニュースや出来事から感じるのです。

悲しいことです。虚しいことです。

どんなに祈ってみても、どんなに言葉にしてみても。

悲しいことに、それは悲しい彼らの耳には、入り得ないのです。

私は、とても虚しくなります。


最後の投稿にはこの詩を選びました。


もし、誰かがこの投稿を読んでくれるようなことがありましたら、

その誰かに伝えたい。


あなたの持つ言葉を大切にしてほしい。

あなたの持つ正義を信じてほしい。

あなたの持つ優しさや愛を諦めないでほしい。


そう願っています。

そして、私は私を信じます。



みんな知らないところで


みんな知らないところから 強い風が吹いてくる
どんなに遮ろうとしても 風は いつも止まることを知らない
みんな知らないところで暮らす あの人の声が聞こえてこない
どんなに確かめようとしても 声は いつも聞こえてくることはない

教えてもらえなかったことが 山のように 溢れている
みんな知らないところには 誰も知ることのない物語がある
100年前も 100年後も 変わりようのない物語がある

振り子時計が 午前0時を告げる
みんな知らないところでは そんな鐘すら 聞こえないのかもしれない
みんな知らないところでは いまがいつなのかも わからないのかもしれない
たしかにわかることは ひとつだけ 空と音だけは 必ずそこにある

みんな知らないところから 悲しい歌が響いてくる
聞こえないつもりの歌声が 風を便りにいつも響いてくる

救われない祈りが 知らないところで 溢れている
選ばれなかった言葉たちが 知らないところで 散っている
100年前も 100年後も それは 変わらず繰り返す

振り子時計が 午前0時を告げる
みんな知らないところでは そんな鐘すら 聞こえないのかもしれない
みんな知らないところでは いまがいつなのかも わからないのかもしれない
たしかにわかることは ひとつだけ 空と音だけは 必ずそこにある

教えてもらえなかったことが 山のように 溢れている
みんな知らないところには 誰も知ることのない物語がある
100年前も 100年後も 変わりようのない物語がある

振り子時計が 午前0時を告げる
みんな知らないところでは そんな鐘すら 聞こえないのかもしれない
みんな知らないところでは いまがいつかなのかも わからないのかもしれない
たしかにわかることは ひとつだけ 空と音だけは 必ずそこにある

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