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ウィトゲンシュタインの再解釈 「もの」は存在しない

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は非常に難しい本で、なので私はたびたび本書を取り出して、最初の一ページだけ繰り返して読んでいるのです。

しかし今回はあらためて誤読をしていた箇所が一つ見つかったことと、もっと大胆に自分流に解釈しても良いのではないかと、そのようなことを考えてみたいと思います。

(上記の動画を元に記事を書いております。アドリブのしゃべりをアレンジしてるので、その違いもお楽しみいただけます。記事は後半から有料(100円)ですが、YouTubeは全編無料で視聴できますので、応援していただけると大変に助かります。)

あらためて『論理哲学論考』の冒頭を引用しますが、

世界は成立している事柄の総体である。
世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
世界は諸事実によって、そしてそれが事実の全てであることによって、規定されている。
なぜなら、事実の総体は、何が成立しているかを規定すると同時に、何が成立していないかをも規定するからである。
論理空間の中にある諸事実、それが世界である。

ということで私はこの箇所にこだわっているのですが、「世界」とは「成立している事柄の総体」なのです。

そして「論理空間の中にある諸事実」それが「世界」なのです。

これを私は自分のYouTubeチャンネルの動画でたびたび「論理空間の中に世界がある」みたいな言い方をしていたのですが、正確に読むとそうではないのです。

まず「論理空間の中にある諸事実、それが世界である」という言い方です。

それによると、まず全ての前提に「論理空間」があるのです。

そして、「論理空間」の中にある「諸事実」がすなわち「世界」なのです。

ですから、このウィトゲンシュタインの言い方だと、「世界」という何か一つの塊みたいな実体があるのではないのです。

だから「諸事実」をまとめて「世界」だと述べているのです。

そして「論理空間」の中にはさまざまな「諸事実」が成立しているのです。

「成立している事柄」が「論理空間」の中にさまざま存在しているのです。

そして「論理空間」の中に存在している「事柄」というのは、それがすなわち「論理」なのです。

「論理空間」の中にあって「成立している事柄」がすなわち「論理」なのです。

ですからこの世界には例えば「地面」があって「太陽」があって「空」があって「雲」があって、そのように「世界」は成り立っているのですが、それらは何かと言えば「成立している事柄」なのです。 

そしてそのような「事柄」がどのように「成立」しているかというと、「論理空間」の中の「論理」として成立しているのです。

現代は科学の時代ですから、「空」が何であるとか、「雲」が何であるとかということは、論理的に解明されています。

例えば「雲」は地表の水が蒸気となって上空に昇って集合した塊です。

「空」は地球の重力に引かれた空気の層で、その先は宇宙に通じているのです。

そして「太陽」は宇宙に浮かぶ天体で、「地面」は地球という惑星の表面で、その「地球」は「太陽」と共に宇宙空間に存在しているのです。

まぁ、私は物理学は得意ではないので、実際にはもっとちゃんとした「論理」があるはずですが、いずれにしろそうした「論理」がすなわち「成立している事柄」であり、その総体が「論理空間」だと述べられているのです。

もちろん人間の身体も、「論理空間」の中に「成立している事柄」なのです。

例えば二本足で歩けるという「事柄」、いろいろな物体を手で持つ事が出来るという「事柄」、それらの「事柄」が、理路整然とした「論理」として「成立している」のです。

また呼吸をしたり食物を取り込んだりして生命を維持する人体の複雑高度なシステムも、全てが「論理空間の中にある諸事実」であり、「成立している事柄」なのです。

なぜそんなことが成立し得るのか?というとそれは「論理空間」の中にある「論理」だからなのです。

「論理」に従えば何だって「成立する」し、「論理」から外れているものは「成立しない」と、そのようになっているのです。

さらに冒頭の続きを引用しますが、

世界は諸事実へと分解される。
他のすべてのことの成立不成立を変えることなく、あることが成立していることも成立していないこともあり得る。
成立している事柄すなわち事実は諸事態の成立である。
事態とは諸対象(ものの結合)である。
事態の構成要素になり得ることはものにとって本質的である。

ここで引っかかるのが「もの」という概念が述べられている点です。

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