見出し画像

「障害者でごめんなさい」に染まれなかった夏のこと

※これはあくまでも私が経験しただけの話です。障害者や障害者就労移行支援事業所すべてを否定するものではありません。


私もう泣きわめいてこんなの嫌だって駄々こねてもいいんじゃないかな。
九月のあたま。どこか他人ごと、だけど自分のこととしてぼんやり諦めそうになりながら、横たわっていた。
つくづく人生に向いていない。
それが結論なのだと決めそうになりながら、身体をまるめて目を閉じていた。


障害者就労移行支援事業所。
そこに通ってみようかと模索しはじめたのは、八月のはじめの頃だった。
どういったところであるかの情報は、いちおう持っていた。ウェブライターの仕事をしていた時期にその案件の依頼があったからだ。

今年になってから在宅での仕事をやめて社会復帰に挑戦していたものの、六月末の時点で既に二つの職場を去る結果になってしまっていた。
私はもともと障害者手帳を所持している身分である。二級。福祉の手も借りて何とか生きている現状を、どうにか克服したい。
自立したい。
しかしコロナの情勢もあり就職活動はうまく行かず、ようやく見つけた仕事も、どうしても定着できなかった。

就職活動の際には必ず「障害者手帳を受給している」旨は面接前に伝えてあったし、「心身ともに健康」が条件に入っている募集ははなから控えていた。

「障害者に偏見はないけれど、今はコロナのこともあるので、働きたい人より働かなければならない人を優先したい」

そう言って面接を断る雇用主たちを、私は差別者だとは思わない。極めて合理的な判断である。


合理的判断。
障害者の就職を手伝ってくれるというその場では、この「合理的判断と配慮」についての教育を受けることになる。

「この人はこういう障害特性を持っているから、こうした仕事は苦手で、こういった分野が得意で、稼働可能時間はだいたいこれくらいです」

と説明し、企業や職場側に「合理的判断および配慮」をあらかじめ要請して、選考の大きな検討材料としてもらう。
就業に至った後は、勤務を問題なく継続できているかどうか、おおよそ半年間の定着支援を受けることもできる。

障害者雇用が義務づけられて十年以上が経つが、円滑にことが進んでいないのが現状だ。数年前までは障害者枠の採用基準を満たす上で複数の解釈があったり、とにかく枠を埋めれば良いとの発想でカウント方法に手を加えることも少なくなかったという。
それがこの一、二年で改めて整備され、「障害者雇用枠」の定義が一律化されることになった。

これでより多くの知的、身体、発達、各障害者が等しく社会に参画できる。
障害者が「合理的配慮」を受けるに足る訓練を受けていれば、職場でも障害者として萎縮することなく、堂々と戦力の一員として働けるようになる。
であれば雇用主側も障害者だからという理由だけでは解雇することもなくなる。よって定着率が上がる。

障害者を差別してはいけない。
そう語るのは簡単だが、実際には差別意識がなくても、職場に混乱を来たし、業務に支障が出れば、解雇もやむを得ない。それを非難するのは感情論に過ぎないだろう。
その混乱を防ぐため、就職前から就職後までを全面サポートする、それが障害者就労移行支援事業所の役割である。


私の知識はそこまでだったので、とりあえず近場の事業所に電話をしてお話を聞いてみることにした。
翌日には見学に赴き、翌々日には体験者として訓練生とほぼ変わらない過ごし方をさせて頂いていた。


何故、私がそこを利用しようと思ったのか。
もうとにかく働きたかったからである。
しっかりと、継続的に。
そしてこれまでうまく行かなかった部分を改善し、リトライしたかったからである。

その間、就職活動はおろか就職もできないけれど、急がば回れをおろそかにしてきたのも良くなかったのではないか。
遠まわりになっても、やれることがあるならすべてやった方がいい。
そういう意味では、自分が「障害者」であることは幸いなのかもしれない。
「障害者枠」を検討し、「障害者サポート」を受けられるのだから。

私はもともと、自分のしたいことをやるためならどんな方法でも試してみるタイプである。
だから「障害者」の自分を活かすことにも、大したためらいはなかった。

ただ問題は、私は障害者手帳を所有しているし市や国からの補助も受けているが、一部の病識に欠けていたこと。
私の場合、精神科の医師の意見書をもとに障害者手帳の申請を行い、適宜、更新している。
つまり私は当初「精神障害者」のくくりであったのだ。
が、数年前にちょっと自分でも気になるところがったため発達障害の診断を受けたところ、ADHDであることが分かった。
ただし、医師の所見としては、
「大人になってから、また、精神科医指導によって服薬を行っている場合、発達障害の正式な診断が出ないこともある」、
そして、
「あなたが仮にADHDであったとしてもそれほど重大だとは思えない。自分が精神科医だからというのもあるけれど、精神面の問題の方をより重視している。むしろ精神的な患者であることさえ時に忘れるほど安定している時間の方が長い。手帳を交付するのは福祉の援助の際に必要だから。病気そのものは治らないかもしれないが、安定した時間をより長く、最終的には恒常化することで、服薬もいっさい不要になると考えている。だから今は発達障害のことは忘れて精神面のケアに集中した方が良いのでは」
それでも発達障害に特化した治療が受けたいのならば、別の専門機関をあたるべきである。何しろ、ここは精神科なのでそこまでカバーはできない。
(なお手帳そのものは、精神障害手帳なら発達障害にも適用されるから、特に変更などは必要なく発達障害の施設でも利用できる)


なるほどと思った。
当時の私には、日常のさまざまな問題を抱えながら精神科に通院し、更に発達障害をどうにかする、となると確実にオーバーワークであった。
何より私はもう二十年ちかくお世話になっているその医師を信頼していたから、その提案を受け入れたのだ。


障害者就労移行支援事業所に通う際も、本来、医師に相談しながら進めたい気持ちはあった。
が、弁解をすると、この時期はお盆やすみ前で病院は予約でいっぱい。ひとまずお盆が終わる頃に予約を入れておいて、事業所に体験者として通うことになった。
繰り返しておくが、その時点で私は見学であり体験者である。
事業所の正式な訓練生となるには、市の福祉を通して手続きを行わなければならない。
だが、いちおう担当となった職員さんから「参加して、発言や質問を積極的にしてみても大丈夫ですよ」と許可を得ていた。

であれば遠慮なくやらせて頂く。


恐らく事業所によって違いはあるだろうけど、私が通ってみたところは、最初の数ヶ月はアサーティブやストレスコーピングといった心理学用語らしきものを織りまぜた講義を受け、その学課(?)を修了後、PCスキルなどより実践的な訓練に移るといった形式。
正直「アンガーマネジメントと就職ってどう結びつくんだろう?」と疑問に思ったが、講義の終盤で事例として、
「上司に私情で八つ当たりされて怒りを覚えた場合、どう対処するか」
といった討論になったりもしたため、「なるほ……ど?」と何となく納得しつつ参加していた。

もちろん挙手をして質問をどんどん行い、発言の機会は逃さず、課題もマイペースでこなしていた。
そういうことは全く苦ではなかったし、心理学には興味があったので、本来の目的から逸脱していたとしても楽しむことはできた。
発言内容としては、
「職場で辛いことがあって気分が落ち込んだ時のためにストレス解消法を常備しておきましょう」
との議題の際、進み出てホワイトボードに「よく寝る」「あたたかいものを飲む」「文章を書く」などとマーカーで並べる。
講師が「どれも簡単にできる、とても良い例ですね」と褒めてくれるものの、

「でもストレスで眠れないこともあると思います。寝よう寝ようとするのもストレスですよね。けど寝ないで出勤すると業務に支障が出ますから安眠のための工夫がより必要に感じます。あたたかいものは、優先順位としては睡眠より上です。社内でも飲める時間はあるでしょうから。よく眠れた日でも保険になりますし。
ストレス解消法って探したり用意しておくのももちろん大事だと思います。でも自分の好きなことの中からピックアップした方が良い気もしますが、どうでしょうか。
ストレス解消法さがしがストレスになってしまっては元も子もありません。それに義務化した解消法というのも私は違和感があります」

と掘り下げてみたりすることが多かった。
講師はちょっと考えてから「心配のしすぎですよ。今からストレスになっちゃいますよ」とだけおどけた風に答えた。訓練生が笑う。
他の訓練生たちが前に出て「家族とおしゃべりする」「お風呂にゆっくり入る」「アロマテラピー」などと書き込んでいく。
講師をそのどれもの丸をつけて、「皆さん、ちゃんと自分で分かっているのですね。すばらしいことです。ぜひ普段から実践してください。これをやればストレスがやわらぐ、と頭が覚えれば、就職してからも活かせます」

なるほどなあ、と改めて思った。
そうしたことが重なり、ここにいる十人ほどの人たちは、年齢は十代から五十代まで、職歴があったりなかったりとまばらだけれど、どうやら全員、家族と暮らしていて、家族に許されているんだなと。
そして自分を許しているんだなと。


体験通所からだいたい一週間が過ぎたころ。
担当の職員さんから「面談をしましょう」とお話があった。
そろそろ決める頃あいなのだろうな、と私は彼の後に従って面談室の椅子に座った。
彼はにこやかに笑い、毎日、暑い中を来て頂いて、お疲れではないですかとねぎらってくれた。

「この一週間、あなたの態度を見ていたのですが」
「はい」
「とても優秀ですね。発言内容も高度で、着眼点も非常に鋭い。でもあなたは発達障害ですね」

私は、そうなんですか、と疑問の調子ではなく平坦に応じた。
先ほども書いたが、私の手帳区分は基本的に精神障害者のそれだ。
でありながら、ここに通ったのは、ここが、
「発達障害対象がメインだが精神障害者にも対応する」
とあり、電話でもその点の確認を取っておいたからだ。

「私は発達障害のプロです。その目線からすれば、あなたは発達障害というより、ちょっとしたボタンのかけ違いぐらいだと思います」
「はい」
「でもあなたは完全に発達障害です」

このあたりから話が分からなくなってきた。

「発達障害ならではの特徴やおかしなところが、この短期間でも山ほど見受けられます」

これも既に書いたことだが、私は発達障害の病識がほぼ無い。その治療をしてこなかったから。それも電話でこの担当者に告げておいたことだった。

「では、具体的に、どういった点が発達障害なのか、二、三、お教え頂けますか」

そう尋ねると、彼はとたんに眉をひそめた。

「難しいですね。ほんと、発達障害って感じがしないので」

ん?さっき山ほどあるって言わなかった?
と突っ込むのを控えていたら、

「すごく理屈っぽいですよね」
「よく言われます」
「そこですよ。講義中、あんな質問をする人はいません」
「どんな質問ですか?」
「理詰めの質問です。普通ならしませんし、発達障害だからこそするんです」

はあ、とまぬけな声を洩らしそうになった。

「講義中に感情的な質問などしません。理論とまではいかなくても、疑問に思ったことを明確に伝えるために理屈っぽくなるのは自然なことかと思っていました」
「ほら、そうやって理屈っぽい言い方をするでしょ?それが発達障害なんですよ。普通、謝りませんか?」

今度は私が眉を寄せる番だった。
が、どうにかそれを抑え、失礼いたしました、と頭を下げた。その後で、

「では、二つ目をお願い致します」
「二つ目って何です?」
「えっと、私が発達障害だと判断したポイントを三つほど教えて頂ければと申し上げましたので」
「だからそういうところなんですよね」

彼は手にしていた資料で軽くテーブルを叩いた。
内心で驚きつつも、私は黙って続きを待った。

「こうやって発達障害だって言われたら、ああそうなんですかすみませんって言うものですよ。それを二つめ三つめって、そういうのが発達障害なんです。わかりませんか」
「そうですね、わかりません」

もう大分おもしろくなってきていたので、私もモードが切り替わっていた。
臨戦態勢である。

「既にお話しました通り、私は発達障害に関する知識や自覚がほぼありません。だからプロの方がいらっしゃるならお教え頂きたいんです。そのこともお電話でお伝えしましたよね?」
「反論しにくいんですよね、あなたの話」
「自分ではそのつもりはありませんが案外、正論を申し上げているのかもしれませんね。理屈っぽくても。とにかくご自分の発言に責任は取って頂きたいです。撤回するならそう仰ってください」
「じゃ撤回します。とにかくあなたは発達障害です」
「ご意見はお伺いしました。ありがとうございます」
「あなた友達いないでしょ」

思わず笑ってしまった。笑いながら、うっかり拍手までしていた。

「すごいですねえ!なんでもお分かりな感じですね!で、根拠は?」
「そんな理屈っぽいと友達いるはずないですし」
「んー、私にも選ぶ権利ってあるんですよね」
「まあいいです。これから友達、一杯できますから。当事業所のご説明を改めてしますね」
「お願いいたします」

その後、
「なりたい自分になるのが最高の目標」
「そのステップとして幸福な職場への就職」
「そのためのこの事業所での訓練」
と続く折々、「ここまで分かりますか?」と確認をされた。
が、私は「なりたい自分」と「幸福な職場」については「保留します」とだけ答えておいた。
一段落してから職員さんが椅子に座り直し、どうですか、とまたにこやかに尋ねてきた。

「この世にあなたの居場所は二つしかないんですよ」

この事業所の教室と、幸福な職場です。

ここが宗教がらみでないことは、事前に確認すみだった。県の認可を受けているれっきとした事業所だ。全国に二十ヶ所の支部があり、業界ではそれなりに有名なところらしいことも。

私は創価学会の家に生まれておきながら後にカトリック教徒になるような人間だ。が、宗教に対して憎しみも愛着もさほど持ち合わせていない。
ただ、啓発的な本を巧みに利用して人の心を操ろうとしたり、幸福を声高な謳い文句に変換し突きつけてくるような人や場所には、宗教でなくても「信仰」を感じる。それも相当に熱い類の。そういったきな臭さには鼻が利くほうだ。たぶん。
まして「あなたの居場所はこの二つ」なんて言われて、危機感を持たない方がどうかしている。

「定着支援は就労後、六ヶ月の規定ですが、僕は個人的にあなたをサポートしつづけたいと思います」

私が黙ったままでいると、彼はこう付け足した。にこにこと。

「説明中に、はいはい、って言っておけば良いようなところを、あなたは慎重に『保留』としましたよね。僕はあなたのそういうところが好きなんです。だから見守りたいんですよ」

それを聞かなかったふりをして、私は口を開いた。

「幸福な職場って何です?私は普通で良いんです」
「幸福な職場では友達がたくさんできますよ」
「職場は仕事をしに行くところです。お友達を作る場所ではないはずでは?」
「でもそうしないとあなたは幸福になれないでしょ?だって考えてください」

彼は少し身を乗り出した。
テーブルがあって良かったと、今でも思う。

「僕はここでちゃんと仕事をしてます。前職は商社勤務でした。大卒からずっとそこにいて、最近、ここに転職したわけですが、毎日がとても充実しています。そんな私とあなたと、どちらが幸せだと思いますか?」
「私です」

即答した。
彼は笑った顔のまま凍りつき、ふいにメモを取り出すと、そこに視線を落とした。

「それは、その、なんで」
「少なくとも私は人さまに対してそういう質問をする発想がないからです」
「本当に面白いですよね」

障害者なのに。
呟きながら何やらメモを取っている。

「それに私には重要な助言をしてくれる人や、頼めば真摯に相談に乗ってくれる人がたくさんいます」
「それは確かに、幸福ですね」
「ええ。残念ながら、友人もいますね」
「それは良いことですね」
「私の居場所は二つではないと思います」
「でも」

彼はメモ帳から顔を上げ、まっすぐに言い放った。

「あなたは発達障害者なんですよ。どこからどう見ても」


その日の帰り。
私は自分のなかに、
「障害者でごめんなさい」
「障害者なのにありがとうございます」
という、わけのわからない感情が根ざしてしまっていることに気づいた。


その数日後、医師にようやく会えて一連の話を報告した。
ほとんど私の父親がわりといっても良い、心から信頼できる医師が、はじめて私がやってみようと思うことに、強く反対の意を示した。

「でも、社会に出ればいろんな人がいますし、その人より酷い人だっているでしょうし、その訓練になるんじゃないでしょうか」

我ながら苦しいながらも告げてみると、医師は深くため息をついた。

「何にでも挑戦する気があって、何でもいろんな側面から見て、良いところを探そうとするあなたの姿勢は応援したい。でもそろそろあなたも、それに疲れてきてるんじゃないの。精神障害でも発達障害でも何でも、障害者でごめんなさいって思わされるようなとこは、やめておきなさい」


市役所の福祉科の方も、医師の所見を伝えたところから、声をひそめるようになった。

「私も賛成しかねます。立場上、あまり踏み込めないのですが、お医者さまの仰っていることが正解のように思えるんです」


それでも私は両者の意見を押し切って、登録手続きを開始してしまった。

例の職員からは可能な限り距離を置いた。
しかし何しろ担当である。避けきるわけにも行かず、所長に相談したところ、三者面談の運びとなった。
その場でくだんの担当者は、
「あなたは精神科に通っているから幻聴や妄想があるはずだ」
「私が酷い人間だとしたら、あなたが今後に出会う人間は全員が酷い人間です。だって私は酷い人間のはずがないから」
などと言い募っていたが、最終的には、
「個人的に気に入ってしまったため、通所して幸福になってほしい気持ちが先行し、強く言い過ぎた面もあったかもしれない」
と認めた。

が、私が登録完了直前になってここに通うことを辞めたことと、この担当者との一件は、直接には関わりがない。
いま思えばこれは始まりにすぎなかった。


自分で言うことではないのを承知で、言う。
あの事業所内で私に致命的な問題があったとすれば、私に問題を問題として捉える力が備わっていたことだろう。


障害は個性だとか、その分だけ秀でている面もあるとか、しばしば言われがちだ。
しかしながら、約一ヶ月ちかく、発達障害者だけが集まる場所に通ってみて、私はこう思う。
それは障害者に限ったことでは全くない。
たとえば、七名ほどの職員の中に、実際に発達障害の方が一人いらっしゃると初期に聞いていたが、三週間ほど経つまでどの方のことか私は気づかなかった。
軽度だったからか?よく訓練されていたからだろうか?
そういう問題ではないと思う。
公的な場である教室とプライベートを分けて話し方や話題を変える私の上っ面だけを見て「理屈っぽいから友達がいないはずだ」とか「不幸であるべきだ」と言い続けた人は、いったい何者なのだ。もっといえば、何様なのだ。

訓練生の中には、発言回数が頻繁であるほど、「こういう事業所で働きたい」「支援団体で働きたい」と希望する人が多かった印象もある。
これは私が不登校や引きこもりの施設で働いていた時、生徒から「ここに就職したい」と相談されたことと結びつくように思う。

私は、本来なら一年半はかかる事業所でのトレーニングを四ヶ月で終え就職するという、かなりハイスピードなカリキュラムを進めようとしていた。
もちろん早く就職したいからというのが最大の理由だが、
「教室内の優等生になりたくない、このぬるま湯に留まってはならない」
と自戒していたからでもある。

実際、自分は孤独な障害者で他にはどこにも行き場がなくて職員さんはみんな立派で親切で、と思えたなら、あそこはほんとうに居ごこちのよい場所だったろうと思う。それこそ「居場所」だ。

でも私の直感はだまっていなかった。

ここにいたくない、早く別に行きたい。
そう思える場でなければ、ほんとうはいけないのだ。
自立するとき「家族ってうっとおしいし一人で暮らしたい」とふてくされることがモチベーションになるのと同じだ。

「ここに来ればちょっとしたことでも褒めてもらえる」が永遠に続いていたら、どうだろう。
「ここで働いているとたくさんの人を幸福にできる」と信じている人に守られてばかりいたら、どうなるだろう。

見学二日目に担当者から「どうですか?」と様子を聞かれた時「皆さん、ポジティブですね」とこぼしたのを思い出す。
担当者さんがぱっと顔を輝かせるのを遮ろうとしたわけではないが、「まるで教科書のお手本みたいに」と迂闊にも包み隠さず明かしたときに、もうわかっていたのかもしれない。


「先生がとめてくださったのに、言うことを聞かずに無理をしてしまいました」

年内はもう仕事のことは考えず、休養したい。
ことの顛末を伝えてからそう願い出ると、医師はうなずきもせず、いつもどおり静かにまばたいた。

「あなたの決断なら間違いではなかったんだよ。結果的に失敗しても、まだこれからがあるでしょう。でもそうだね、今は休みなさい」

そして、こう足した。

「ようやく、言えるようになったんだね。休みたいって」

でもそのことばで自分を縛りすぎないように。

私は、はい、と答え、次の段階に進むための話しあいを、九月のカレンダーを前に医師といっしょにはじめた。


サポートして頂いたぶん紅茶を買って淹れて、飲みながら書き続けていきます。