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The Lost King~失われし王ルイ=シャルル第二部(2)百合の後継者

Ⅱ. 百合の後継者

 フォン・シュタインの陰謀が始動する以前に頓挫した事によって、ラサールは再び潜伏し、続く六年間、彼の活動史はまたも空白期間となっている。次に彼が浮上したのは、王政回復直後のパリだった。

 フランスの王政復古、あるいはそれを可能にしたナポレオンの失脚については、枝葉末節を取り払って観察して見ると、その「建築主事」というべき役割を果たしたのが、男爵フライヘアハインリヒ・フリードリヒ・カール・フォン・ウント・ツム・シュタインであった事に気づかされる。彼は己に向けられた激怒から身を守る為に逃げ出しはしたものの、その怒りを引き起こす原因となった、己の務めから逃げる事はしなかった。最終的な避難場所を見い出したサンクトペテルブルク【註1】において、フォン・シュタインは反ナポレオン連合の魂と脳になり、そしてロシア皇帝ツァーリフランス皇帝ランペルールを打ちのめす事によって、これまでの報復を成し遂げるように導いた手も、彼のものであった。

 遂に巨像コロッススが台座から崩れ落ちた時、フランスは安堵の息を吐いた。その感激から嵩じた興奮状態により、人々は白い円形章コカルド【註2】をこれ見よがしに身に着けると、誤った政治体制によって中断されていた君主制を復活させて国王一族に対して行なわれた数々の過ちを正す為に、イングランドのハートウェルから、この国の正統な君主を呼び寄せるのが良いのではないかと思いついた。

 そもそもの初めから、ルイ十八世は誤った自己認識を抱いていた。彼がフランスに憲法を約束したサン=トゥアン宣言【註3】は、ルイ十八世は暫定政府によってパリに入る許可を与えられたのである――という現実を余所に、国王からその臣民に対する気高い譲歩という意味づけにされている。王権神授説を正当化する為に、彼には、憲法とは国王である自分が臣民に授けてやるものであり、臨時政府によって起草された憲法は拒絶する、と強く主張する必要があった。同様に彼は、自分が人民によって復位が叶ったのだと認める事ができなかった。何故ならば、彼は一度たりとも世襲の権利を失った事などなく、そして1795年に(タンプル塔における甥の訃報を受けるや否や)王位宣言を行なって以降、一度たりとも王位に空白期間が生じた事などないのだから。従って、彼は己が亡命を終えて帰国したこの年、1814年を、治世十九年目と記述している。

 五月の陽光輝く中、大歓声を浴びながら、ルイ十八世は八頭の馬に引かれた幌付四輪馬車カレーシュでパリに乗り入れた。彼は約3ハンドレッドウェイト(約152kg)の体重がある肥満した巨漢であり、一度に百個の牡蠣を飲み、毎日1パイント容器入りのワインを約1ダース空ける事によって、英雄的な食欲を有する王と認められていた。彼には首というものがないように見えた。その大きな頭、豊かな白い頭髪の下にある赤紫色の顔は、肩を飾る肩章エポーレットの上に直接据えられているようだった。歓声の轟きに応えて彼は巨大な二角帽子を振り回したが、実の処、歓呼の声は王に対するものよりも、その悲劇的な過去が大衆の想像力を刺激し、同情の熱狂を誘った姪に向けられたものの方が大きかった。

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『スカラムーシュ』『海賊ブラッド』のラファエル・サバチニ作の古典小説 The Lost King(初刊1931年)の独自翻訳。ルイ=シャル…

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