日本の未来のために必要なのはアイデンティティの確立?
前のブログの続きです。(読まれていない方はそちらからお願いします。)
というか、前のブログを書いたときはそれで終わりのつもりだったんだけど、改めて読み返してみたら中途半端な形で終わってしまっていたなと感じました。
それは、前回も引用した
の部分に対する私の理解(解釈)を示せてなかったということです。
つまり、
アイデンティティは失われているのか?
(失われているのなら)なぜアイデンティティが失われてしまったのか?
アイデンティティが失われたことが、なぜ愚に繋がるのか?
に対する私なりの答えを書けていなかったということ。
この「愚」とは、前のブログで引用している
を指します。
前回のブログでも
「個性」と「アイデンティティ」をごっちゃにして考えてはいけない
と書いて、それが一応私なりの答えでしたが、ちょっと中途半端だったなと思いました。
で、改めて上記3つの問いに対する私なりの答えを書きます。(あくまで私の考えであって、これが正解と言っているわけではないので悪しからず。)
アイデンティティは失われているのか?
まず1つ目です。今の時代は「アイデンティティが失われている」のでしょうか?これの答えの前提として前述の
「個性」と「アイデンティティ」をごっちゃにして考えてはいけない
があります。「個性が失われている」と捉えてしまうと、「個性はあるんじゃないの?」と思いますよね。なので、まずは「個性」と「アイデンティティ」は分けて考えないといけません。
その上で、「アイデンティティが失われている」を考えてみます。
この問いに答えるには、アイデンティティの定義にある
を考える必要があります。「他者・社会との関わり」と考えると「アイデンティティは失われていない」と言いづらくなってきます。特に最近はネット社会となり、他者・社会との関わりが薄くなってきていて、「アイデンティティは失われているかも?」と思えます。
また最近はあまり聞かれなくはなりましたが「自分探し」という言葉があります。これは「自分が何者なのか分からなくなっている」から探しにいくわけですよね。つまり、「アイデンティティが失われている」からこその「自分探し」ではないでしょうか。
このように考えてみれば、「アイデンティティが失われている」と言えそうです。
なぜアイデンティティが失われてしまったのか?
2つの問いです。
「個性を尊重する」「多様性を認める」と言われることは、ある意味自由で楽なことのように思いますが、逆に言えば「自分で自分を定義しないといけないので実は大変」とも言えます。「何か自由に文章を書け」と言われると難しいけど、「定型の様式が決まっているからそれに当てはめて書け」なら容易になりますよね。それと同じことです。
昔はある意味人生のレールが決まっていて自分で自分を定義しなくてよかったのが、最近は「個性を尊重する」「多様性を認める」ことにより「自分は何者なのか」を考えなくてはいけなくなっているのです。
また、「個性を尊重する」「多様性を認める」は大切なことですが、「他者・社会との関わり」を意識せずに「個性」や「多様性」だけを考えすぎてしまっているように思います。そのため、「アイデンティティが失われている」のではないでしょうか?
前のブログに書いた「拠り所」がないために「アイデンティティが失われてしまった」とも言えそうです。
アイデンティティが失われたことが、なぜ愚に繋がるのか?
3つ目の問いです。
「愚」は上述の通りですが、「共通の理解がない。」は、まさに「アイデンティティが失われた」即ち「他者・社会との関わりにおける自分らしさが失われた」からに他ならないですよね。
前のブログでもチーム競技の例を挙げましたが、個の特性を伸ばしさえすれば社会が発展していくわけではないですよね?皆んなで共通の理解を持ち同じ方向を向いて進んでいかないと成果を出せないのは当たり前の話です。
会社で「ビジョン」や「ミッション」を掲げるのもそのためですよね。
昔のような会社に人生を捧げるようなことはもちろん必要なく、ワークライフバランスを保つことはとても重要なことですが、そのことと「社員全員が共通の理解を持って頑張っていく」ということとは別に考える必要があります。会社も「拠り所」の一つとなるべき所かなと思います。(「拠り所」のすべてにしてはいけないってことです。)
社員の個性を大切にするあまり(というか個々人がそのように捉えすぎてしまっているあまり)、組織としてはバラバラになってしまい、成果を出せない会社が増えてしまったため、日本全体としての「愚」に繋がってしまったというのが私の導いた答えになります。
以上で、3つの問いに対する私なりの答えです。
これで、ちゃんと完結できたかな?笑
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