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個性と多様性とアイデンティティと

最近(でもないですが)よく聞く「個性」や「多様性」というワードについてです。「多様性」は英語で言えば「ダイバーシティ」ですね。

「ダイバーシティ」の意味をネットで調べると

ある集団のなかで年齢、性別、人種、経験、趣味嗜好などが異なる人が存在している状態において、その個性が認められる、相対的な考え方です。

とあります。

一方で、「アイデンティティ」という言葉もあります。この言葉もよく聞く言葉ですが、皆さんはこの言葉をどのように捉えれているでしょうか?

ネットで調べると

英語の外来語で、主に「自己同一性」「主体性」を意味します。日本語では「同一性」と訳されることが多いですが、「自我同一性」「存在証明」と訳す人もいます。

とあります。

また、

・自分が何者であるのかを認識して他者と区別できる状態であること
・さまざまな個性をもつ他者・社会との関わりにおける自分らしさ
・自分がそのような独自性を持った、ほかならぬ自分であるという確信

ともあり、「アイデンティティ=個性」とも捉えられそうです。

「個性」や「多様性」については、社会的に見ても「個性を尊重する」「多様性を認める」といった言葉が溢れていて、そのことに対しては自分も「そうだよね」と共感していて何の違和感も持っていなかったのですが、とある本の一つの記述から「思考停止になっていないか、もっとよく考えてみたほうがいいのではないか」と思わされました。

この本で引用されている

戦後の日本人には確立された価値観がない。共通の理解がない。したがって外に向かっても、一貫した立場、節操がない。目につくのはその場主義の計算である。発言は多いが行動は鈍い。

『戦責告白と現代』吉田満

存立の基盤であるアイデンティティ(自己確認の場)まで喪失したことの愚

『戦後日本に欠落したもの』吉田満

の部分です。

最初にこの表現を見た時に自分の中で咀嚼しきれず「アイデンティティの喪失って何?」「個性は尊重されているのでは?」「どういう意味なんだろう?」と疑問符が浮かびました。

また「アイデンティティ」の意味を確認しようと、コトバンクの「アイデンティティ」の解説の一節に

「ごっこ」の世界が終ったとき(1970)〈江藤淳〉一「なにをやっても『ごっこ』になってしまうのは、結局戦後の日本人の自己同一性(アイデンティティ)が深刻に混乱しているからである」

といった記述もあって自分の中のモヤモヤがどんどんと広がっていきました。

このモヤモヤを解消するために、「個性」「多様性」「アイデンティティ」というキーワードを元にネットから情報を得て、自分の中で整理をしていってます。

そして、自分なりに出した結論は

「個性」と「アイデンティティ」をごっちゃにして考えてはいけない

ということでした。

つまり、「アイデンティティ」は、単に「趣味趣向」「性格」「能力」「考え方」といったことではなく、上記にもある「他者・社会との関わりにおける自分」がポイントなのでしょう。「個性を尊重する」「多様性を認める」といったことはもちろん大切なことですが、単に個人が「自分のやりたいこと」「自分の得意なこと」だけをやったところで「アイデンティティ」は確立されず、他者・社会との関わりの中で自分の個性を活かし自分の存在を確立(証明)することが不可欠なんですね。

野球やサッカーのようなチーム競技において、スター選手だけ揃えれば優勝できるわけではないのと同じように、他者・社会との関わりの中で個性だけを伸ばせば価値を生み出して個人の存在が証明できるわけではなく、「アイデンティティ」を確立して個人の価値を他者に認められることで「自分が存在する意義」を感じるのではないでしょうか?

「承認欲求」という言葉がさも悪い言葉のように言われがちですが、「アイデンティティ」の確立のためには他者や社会から承認されることも必要なのだと思います。(もちろん「承認されること」だけを目的にしてはいけないですが)

「アイデンティティ」の確立のためには、「家族」「会社」「友人」といった「拠り所」が必要ですよね。

自分は信心深いわけではないですが、「宗教」を「拠り所」にする人もいるでしょう。(特に昔は)

やっぱり「拠り所」って大切なんだなって思います。(しみじみ)

皆さんの「拠り所」は何でしょうか?

続く


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