【青春を取り返せるかは分からないけど】
私は、笑う術を覚えた。
談笑する術を覚えた。
波風立てない術を覚えた。
居心地の悪い輪の中で笑えずにいた学生時代。
居場所のない人生が続くことを悲観していた。
きっと、そんな私の過去の話を、たとえば職場の同僚は信じないだろう。ママ友達は信じないだろう。
私はいつの間にか、器用に立ち回れるようになっていた。気づいたら。いつの間にか。
シミとシワと処世術。
それくらい自然に獲得した。
歳を重ねるってこういうことか。
∇∇∇
そんなよく笑う明るい中年は、プライベートではほぼ笑わない。
たまに子供たちの言動に笑うことはあるが、それは子供らしさについほころぶようなもので、同世代と分かち合う無邪気な笑いではない。
気兼ねなく笑い合う、冗談に共感して大笑いする、そんなこと、私にはこの先も起こり得ない気がした。
あぁきっと、これは学生時代に誰もが通る道だったんだ、と私は思った。
あそこを通らなくちゃいけなかったんだ。
でもそれは陽のあたる賑やかな大通りで、足がすくんだ。
息のつける、静かな裏道を選び、独り歩き続けて大人になった。
なって、しまった。
大通りを当たり前のように闊歩して大人になった人達が眩しく見えるのは、それが私の歩けなかった道だからだ。
それが、もう取り戻せない日々だからだ。
“青春”という言葉が苦手なのは、経験できずに終わったからだ。
∇∇∇
仕事が終わって職場を出て駅に向かいながら、ふぅ…とスマホをタップする。
#キナリ杯 の受賞発表がタイムラインを賑わせている。
私も応募していた。
しかし、自分の結果などほぼ気にせずにタイムラインをスクロールする。
こんなにも冷静に発表を追いかけられるには理由があった。
数週間前、私はスーパーの買い出しから戻り、車を降りる前に何気なくnoteを開いた。
そこで目にした記事をこれまた何気なく読み進めた。
記事には、#キナリ杯 と添えられている。この人も応募してるんだ…。
話が進むに連れ、私の腹筋はフルフル震えてくる。クライマックスでは不覚にも吹き出してしまった。
『ブハァッッ!!!』
私はその後数分間、涙目でヒィヒィ笑いまくり、ハァ〜…と正気に戻ったかと思うと、また沸々と沸き上がる笑いに襲われ、吹き出すのであった。
私は我慢できずに息子にもその話を伝え、また2人で大笑いした。
笑って笑って落ち着くと、とても満たされてるのがわかった。
お礼をしたい、伝えたい、と、初めて私はnoteのコメント機能を使った。
『私の生活に潤いをありがとうございました。』
大げさなんかじゃない。
泣き笑いのあの涙は確かに、潤いだったのだ。
私が長年飢えていた、潤い。
居酒屋で友人の冗談にヒィヒィ笑うような、ちょっとやめてよ〜と涙目で大笑いするような、そんな明るい、私が求めていた潤いだった。
∇∇∇
青春を取り返せるかは分からない。
ただこのnoteの世界が、処世術という鎧を脱いで気兼ねなく本音を言えて、本音に笑えて涙できる、そんな場所だと気づいた。
閉め切った車を突き抜けるくらいの笑い声を出させてくれたあの作品は、受賞した。
スッコーンと空に抜けるような気分。
やっぱりなぁ!
すごいよね!
やっぱこの人、おもしろいよね!
まるで友人に対するような、尊敬と感心と賛同を一度に覚え、自分でも驚いた。
これからも、私は様々なnoteに出会い、笑い、泣くだろう。
日陰ばかり裏道ばかりを選んで歩く少女は、少しずつ癒やされていけると思う。
ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!