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僕は猟師になった

『もうひとつ重要なのは、個人の日常的な行為のレベルが、国家や市場といった大きな動きと「連結」しながらも、かならずしも「連動」していないという点。つながってはいるが、前もって意図された方向だけに動くわけではない。そこに世界を変えるためのスキマがある。
 アメリカの外交戦略も、エチオピア政府の政治的意図も、いろんな人とモノの連結の過程をへて薄められていく。国家や市場の「思惑」は、最後は個人のささやかな行為のなかで解消される。』松村圭一郎/うしろめたさの人類学

『僕は猟師になった』という映画をみた。
京都の市街地からほど近い山裾に住む、千松信也さんという方の生活を追ったドキュメンタリーで、山に入り足跡や糞から動物たちの存在を確認し、広大な斜面のなかに直径12㌢の罠を仕掛け、自分たちが食べる分だけ猪や鹿を獲る。

京都では、鹿肉や猪の肉に対する評価が高く、日常的に食べていると言うと羨ましがられるという。高級なジビエ料理を家庭で食べているなんて!ということなのだろうか。

ただ、「食べる」に行き着くまでの過程が物凄かった。罠にかかった猪は殺されまいと襲い掛かろうとしてくる。罠のワイヤーが足には掛かっているため、半径1,2メートルの範囲しか動けないが、息を荒げ助走をとって突進を繰り返す。
千松さんは、落ちている木の枝を手に取り獲物に相対する。その枝で殴ろうとしても猪も必死なのでなかなか当たらない。長時間の格闘の末に猪を気絶させると、上にまたがり心臓をナイフで刺す。そして引きずって山を下る。

家に着くと家族や猟師仲間と解体が始まる。
天井から逆さまに吊るして、皮を剥いでいく。一気に剥ぐと脂肪が身に残らないので、ナイフで少しずつ丁寧に捌く。臓器(肝臓?)は乾燥させて薬に、骨はスープを取る用に。千松さんは、獲ったらまず最初に動物の中心にあたる心臓から食べるという。

印象に残っているのは、それを食べているときの静けさだ。千松さんは解体後の夜、一人で肉を焼き粛々と食べていた。家族で盛大にお祝いなんてしない。そして取材陣に猟師になった理由を語った。彼はもともと肉が好物だったという。でも、知らない誰かが殺して捌(さば)いて、自分はそれを食べるだけ、ということに納得がいかなかった。動物に対して、自らが卑怯に感じたのだろうか。

千松さんの動物に対する態度は、普段の生活にも表れている。ある日、彼は山を下っているときに滑落し、片足を骨折した。足首の部分がナナメに折れており、医師の診断によると全身麻酔でボルトを入れる必要があるとのことだった。でも彼は手術を断り、ギブスだけしてもらい帰ってきた。それでは骨が不完全な形でくっ付くが、構わないという。山に住む鹿や猪はケガをしてもそのままなのに、自分だけ手術で完ぺきに治してもらうのは、猟師として何か違うんじゃないかと語る。

どちらの場合においても彼が大切にしているのは自身の納得感だろう。自分だけが得をする、ということをよしとしない。オイシイ思いをするためには相応の苦労をする、自分だけが有利になるような条件にはしない。全てにおいて、対等であろうとしているのかもしれない。

『帝国的生活様式とは要するに、グローバル・ノースにおける大量生産・大量消費型の社会のことだ。それは先進国に暮らす私たちにとっては、豊かな生活を実現してくれる。その結果、帝国的生活様式は望ましく、魅力的なものとして受け入れられている。
 だが、その裏では、グローバル・サウスの地域や社会集団から収奪し、さらには私たちの豊かな生活の代償を押しつける構造が存在するのである。
(中略)
 そして、犠牲が増えるほど、大企業の収益は上がる。これが資本の論理である。 
 もちろん、このような耳の痛い指摘は、これまでも何度もなされてきた。けれども、私たちは、いくばくかのお金を寄付するくらいで、すぐにまた忘れてしまう。すぐに忘れることができるのは、これらの出来事が、日常においては不可視化されているからである。』
斎藤幸平/人新世の「資本論」

資本主義というのは、見えない誰かに犠牲を押しつけるシステムなんだという。豊かな生活を送ることができるのは、一方で大変な思いをしているひとがいるから。安いモノが買えるのは、見えないところで低賃金で働いているひとがいるから。エコバッグやゴミの分別くらいしか努力しない私たちの犠牲になるのは、温暖化した環境で生きることになるいまの子どもたちだ。

私たちは、気が付かないうちに誰かを犠牲にして生活している。だからまずできることは、自らの無意識の加害性に気付くこと。表があれば必ず裏がある。自分がなにか得をすれば、知らない誰かが犠牲を払っているのかもしれない。私たちは、負の部分を自分より弱いものに転嫁しているから、何不自由ない暮らしが送れる。それは、暴力の連鎖と同じである。

『悪はわからないように、細かく切り刻まれています。そのバケツリレーに加わってはいけません。暴力に加担することだからです。そして最後のバケツが運ばれたとき、破壊が起こります。
 歯車の一部になってはいけません。ジャムすること。ジャムするとは、詰まるということ、流れを阻害するということです。それはつまり、休むということです。』安冨歩

流れを断ち切るために何ができるのか。
自分の豊かな生活のために、犠牲になっている人がいる。その事実に意識を向けること。彼ら彼女らと、少しでも対等であろうとすること。

でも具体的には?

猟師になった千松さんの動物たちに対する敬意、そして、彼自身に対する態度をみて、僕はどうすればよいのだろう。

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