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他人の選んだ服を着せられること

『「いつもニコニコしていること」を自分自身の信条として掲げるのは、個人の自由でもあるわけだし、好きにすれば良いと思う。ただ、他人にそれを求めることが、あからさまな抑圧だという程度のことは、できれば自覚してほしいと思っている。』
『「怒り」という感情を、理性の敗北ないしは欠如としか考えない人々は、怒りを表明している人間が何に対して憤っているのかをまるで問題にしない。その代わりに彼らが選ぶ態度は、怒っている人間の狭量さや余裕のなさを憐れんだり嘲笑することで、結果として現体制を擁護することだったりする。』小田嶋隆

それは自由を奪われる感覚。
自分のことを自分で決めることができないということは。
自らの意思を無視されることは、相手にとって私という存在が認められていないことであり、
一人前にものを考えることができないレベルだと思われている、ということ。

「だってそうじゃん」

そんな扱いをされたら、人としての尊厳なんてものは無くなるよね。自信を奪われ、自ら動くことのできない操り人形となる。コントロールする側からしたら都合が良いのかもしれないけど。
何せ反抗しないからね。怒ることができない。
自分で考えることができないのだから、言われた通りに動くことしかできなくなる。自ら行動できない。既存のシステムに乗っかるしかない。どこかの会社に雇ってもらうしかない。

ああ、これは自分にも当てはまるわ。

だから坂口恭平とかを羨ましく思うんだ。

この社会で生きている限り、誰しもが当てはまる。でもだからこそ、自分の権利を主張することが大事なんじゃないか?
俺のことは俺が決める、と。

その態度は、決して、他者の声から耳を塞ぐことではないし、意固地になることとも違う。

権力のある者に反抗するということは、必ずしも命令の逆を行くということではない。最大の逆張りは、自分の頭で考えること。予測ができないからね、そういうひとの動きは。管理する側からしたらとても恐い。

そしてその積み重ねが、自分という個を形づくっていく。いつかは仕事もつくることができるかもしれない。

自分の仕事をつくる。
自分をいかして生きる。

どちらも西村佳哲著。

いまわかった。だからフェミニズムに興味があるのかもしれない。本来対等であるはずの人間同士に上下関係が生まれること。「主人」と「奥さん」ですか?

あと、滅私奉公って言葉もすごく嫌いだ。
自分を殺すことでしょう。なんで自分自身をそんなに粗末に扱うんだ?

個人の意思を尊重すること。

なによりもまず、自分自身の意思を。

その態度は必ず、他者にも向けられる。

だから、自らを大事にしているひとは、他人にも優しくできるんだよ。優しさというのは、知性がないと出来ない。一方、無知は暴力につながる。

だから勉強しよう。
地頭の良し悪しなんて本当に意味がない。
毎日の積み重ねが、10年経てばわかるはず。
(例:松本人志。地頭はとても良いけど、。)

もし知識がなければ、暴力を振るわれてもヘラヘラと受け流すことしかできない。でも整理された知識があれば、正当に怒ることができる。自分を守ることができる。

「怒り」というのはネガティブな感情ではない。それは知性の表れ。怒ることは自らの尊厳を守るための行為であり、自分が意思を持っているという証拠だ。

怒れる少年少女たれ!

「大人は判ってくれない」という映画を思い返しながら書きました。


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