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ADHD・グレーゾーンの生き方を考える集い

もともと僕は、本当に注意力が散漫で、着想と行動力は評価をされるのだけれど、物忘れが激しかったり、めっちゃ遅刻したりする、これを単なる「うっかり」であったり「その物事に対する関心が薄い」とか「本気じゃない」「興味がないからだ」と断定されてしまうことが多くありました。

自分もそれはきっとその人が言う通りなのだと思い込んでいて、自分は不義理で薄情で、愛情に欠ける、また普通のことが出来ない欠陥のある人間なんだろうなと思っていたし、ただし、そうは言っても、いまも欠陥があることは認めて生きています。だからこそ誰かに遠慮なく頼ることができるので。


凸凹(でこぼこ)の特徴で生きていく人生というのは、おそらく見た目には面白いと思うのですが、それを総合力の高い人から面白おかしく茶化される側としてはけっこう悲しく、わりと傷つくことだったりします。実は。

しかし、なぜか上手につくり笑いが出来てしまうのか、そういうことがあっても仕方ないようなやりとりが続くのは、自分自身もまたこれが自分の特性であることを気づいてなかったことにも原因があったように思います。


そんなADHDやグレーゾーンと言われる人たちの相談を受け続ける臨床心理士の南先生が、「横田さんの話にはたくさんの気づきがあります。私が関わる人たちにとってとてもいい機会になると思います。」と言って下さって、自分の困ってきた、今や開き直って生きている特性が役に立つのならと思って、今回の講演会も引き受けさせていただくことになりました。


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当日は30−40名くらいの方が参加してくださり、テーマがこうしたテーマだけに、見ていたところおそらく全員がいわゆる発達障害に関わる一定の心当たりがある人たちばかりでした。

開催側の南先生も「すでにこれだけのみなさんが時間通りに来てくれただけで、今回の企画はすでに成功だなと思います(笑)」と冗談半分本気半分で仰っていて、優しい人たちと生きていける世界があるものだなあと、本当にありがたい場所で話をさせてもらえる機会に感謝の気持ちでした。


今日はいろんな話をしましたが、極端に出来ないことがあるぶん、それなりに極端に集中してしまうことや、ワケもなく出来てしまうことがあったりするのがこうした性質を持った人たちの行動特性だったりするようです。


そのことを、「普通のことができない欠陥のある人間だ」と思えば地獄のように苦しい人生だろうなと思います。

一方でそのことを「普通の人ができないことができる人間だ」と思い、またそれこそが自分が他人に役立つことができる才能だと思えば、この世は天国のように優しくありがたい世界に変わるように思います。


子育てに置き換えていえば、

「あなたが普通のことができなくて私は悲しい」
と両親から言われたとすれば、ADHDやグレーゾーンの性質を持った子供にとって自分の関心以外に時間を割くのは絶望的な苦しみであり、それを強要される人生は地獄のような場所になるのだということ、ですし

「あなたが他の人にはできないことができて私は嬉しい」
と両親から言われたとすれば、ADHDやグレーゾーンの性質を持った子供にとって自分の関心ごとを支援してもらえるのは自分の才能が発揮されることなので、心地よく活躍できて天国のような幸せになるということ、です。


そんな話を中心に。


特性をもった人たちが、普通・常識・当たり前という無配慮な発言にずっと苦しんできたことを理解できるからこそ、今日は徹底的に、その才能を宝物として生き始める生き方だって検討してみませんかという話をしました。


ここに自分で足を運べている人たちは、自覚していることも、またそれを自覚した上で何か自分なりに変化するきっかけを探そうとしている時点で、かなり先進的で稀有な存在なのだと思います。もっともっと苦しんでいる人たちがいるだろうし、もっともっと無配慮な言葉に悲しい気持ちになっているのだろうなと思います。


その人たちに配慮をしてほしいというのは難しい。
だってその特性がないのに、それが分かるはずはないので。仕方ない。


だからこそ、それを実体験と共に共感できる人たちとの出会いで、少しでも楽に生きていけるのなら、そんなに素晴らしいことはないと思いました。

こういう活動は本当に大切に関わっていきたいと思いました。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。