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役割という仮面が歪みを生み出す

ペルソナという言葉があります。
もともとはキリスト教の三位一体論(父と子と精霊)からきていて、「個別性」を意味しているものと辞書には書いてあります。
一般的には人格とか人物のことを言うようです。

マーケティングの世界では、特定のセグメントに属する人の特徴をどんな人物かと設定するときに使う言葉なので聞いたことがある人もいるかもしれません。
例えば、「昭和のサラリーマンで、大学生ぐらいの娘にバカにされない程度のおしゃれがしたい男性」みたいに設定をして、そんな人にマッチするファッションや小物を提案するのに使ったりします。ストーリー仕立てで人物像を浮き上がらせることでイメージをしやすく効果がありますね。

私がペルソナという言葉に触れたのは、マーケティングではなく心理学でした。確かMBTI(Myers-Briggs Type Indicator)を学んでいた時だったと思います。MBTIの源流はユングであり、ペルソナについては本来の自己の上に被さっている役割上の仮面のようなものであると教わりました。
役割とは、親であったり、上司であったり、学校の先生であったりになりますが、社会通念上で作り出されている属性に対するイメージである場合もありそうです。例えば「男性」であったり、「社会人」であったりですね。

仮面という表現を使っているのは、それが本来の自分とは別の人格として演じているという意味です。
とはいうものの、演じている人格はその人が特定の「役割」に対して描いているイメージであったり、誰かが決めて人に期待したり押し付けたりするイメージが作り出しています。ゆえに、人によってズレも生じますし、それによる混乱も起きます。

加えて、このペルソナと本来の自分の間に葛藤も起こります。
ある役割に仕方なくついて仕事をしていたのだけれど、「自分らしい働き方に思えない」とか「なんかしっくりこない」とかが起きてしまい、仕事ができないわけではないのに生き生きと働くことに繋がらずに最終的には組織を去る事にも繋がります。
最近よく遭遇するようになったのは、新卒入社の新入社員にそれが起こり一年経たないで退職してしまったり、キャリアに傷がつくので辞めない(親に反対されるからでしょう)でいるうちに鬱状態になってしまったりすることです。
何が起きているのかはおそらく本人にも分からないのでしょうけれど、ペルソナを演じ続けることに息苦しくなるような状態であることが、その人の話を聞いていると私には感じられます。

「無礼講」で起きること

もうちょっと分かりやすい場面で考えて整理してみたいと思います。
昭和の時代ではよくあったことであり、たぶん今でも多くの組織やコミュニティで実践されているのが「飲み」ですね。
それは会議の打ち上げであることもあるでしょうし、プロジェクトのキックオフ後の懇親会であることもあるでしょう。あるいはもっと身近で、遅くまで一緒に仕事をしていたメンバーが声を掛け合って「飲みに行こっか」となることもあるかもしれません。

日本的な企業では「お酒の席で大切なことが決まる」とか「酒席も仕事の一部」みたいなことを言われたりしますね。フォーマルな席では話さないようなことをお酒の力を借りて伝えることをしている「飲んだ席での話」ってやつです。
普段出さない個人的な話や仕事に関する本音をポロッと出して、「ここだけの話」にしておいてもらうことで、相手のことを感情のある人間として見ることができるので、相互理解が進んだ気分になり、しらふの席でも話しやすくなったり親しみを感じたりしますよね。

そういう効果を期待してか、昭和のサラリーマン達、特に上司の人たちは「今夜は無礼講だ!」などと言ったりします。
堅苦しい礼儀は抜きで本音で言いたいことを言おう、という主旨なのでしょうが実際には上司にビールを注いだり料理を取り分けるのを下の立場の人がやってると言うところがあったりするかもしれませんね。(笑)
それでも、その人の意図としては「みんなの思っていることを聞くぞ」という意思表示ではあると思います。(そう言って自分だけ長々と喋っちゃう人もいますけれどね)

ちなみに、この無礼講のようなものは外資企業でもあります。
チーム・ビルティングという呼び方で、フォーマルな会議の中で時間をとって仕事以外のことをするのです。必ずしもワークショップではありません。
例えば、みんなで一緒にスポーツをしたり、料理を作ったり、オリエンテーリングのようなアクティビティであったり。半日ぐらいかけて参加者みんなで楽しむのです。
これとは別にいわゆる懇親パーティもちゃんとあります。そこではプライベートな話も仕事の話もごっちゃになるので、日本の懇親会と似ているかもしれません。

ここで考えたいのが、無礼講では何が起きているのか、です。
上に書いた外資の例もそうですが、お酒は必ずしも必須ではありません。それがあったほうが言いたいことを言う時の心理的抵抗は下がるかもしれませんが、おそらく「お酒を飲む場」という設定が無礼講を可能にするのでしょう。

無礼講という場面設定では、それぞれが被っているペルソナが外れてその人本来の姿が出てくるのではないかと私は考えています。
ペルソナは役割が作っているので、役割上でできている関係性は気にしないで、本来の自分のままでそこに存在していて良い場が無礼講なのだと言うことです。多少の失礼や言い過ぎは見過ごしてもらえるので、立場や役割もあって普段言えないことを言ってみようということですね。

私は、海外のチームビルディングで、バブルサッカーをやったことがあります。
VP(副社長)も担当者も同じフィールドで風船の中に入って走り回り、ゴールをすれば一緒に喜びますし、コミカルな動きがあれば一緒に腹を抱えて笑います。
そこには夢中になって今を楽しんでいる本来の自分があり、役割の差による垣根はないのです。他者に開示してない自分の性格が表に出てくるので、意外な一面があることを知り、それによって親しみが湧くということにもなるでしょう。

ペルソナが心理的距離を作る

無礼講が本来の自己を解き放ってくれるものだとして、これを別の視点から見ると、普段が如何に役割に徹してペルソナを被っているかということでもあると思います。

組織においては、役割の違いが力の違いを生むことになり、それが一部のハラスメント(力による強要)になってしまうケースも少なくありません。
本人としては親愛の情であったり、相手のためを思ってなどと言い訳しても、受け取り手が傷つくことになるのは、それが役割からくるパワーを伴っていて、押し付けであったり命令になってしまう(言い返せないので従わざるを得ないのは命令に同じ)からではないでしょうか。

組織の中で一緒に仕事をする以上、それぞれにある程度の役割があります。
それがパワーの差を作ってしまい、それにより個人と個人の間に距離ができてしまうことがあるのではないでしょうか。
例えば、リーダーとかマネジャーとかいう役割が、その人に決定権や命令権を与えてしまうとそれがパワーになってしまい、パワーを持っている人からそれを行使される人の間に信頼関係が出来上がっていないと、お互いが心理的な距離を置いてやりとりをすることになると思います。
役割分担を細かく切って、それぞれが自分たちの役割に徹して働くようになっているややサイロ的な組織ではそれがなおさら強調される傾向がありますね。

仮にそれぞれ任せられている役割があるとしても、それぞれが自分らしくあり、自分の思うところを恐れることなく率直に意見できるような状態が心理的安全性ですけれど、実はそれを作り出すためには自分自身が一度自分のペルソナを外して、自分自身の経験に根ざした価値観や信念から行動することが必要なのではないでしょうか。

同時にそれは他者に関わる時に、その人の役割から来るペルソナを外してその人本来の姿や大切にしていることを見に行く、聞きに行くことでもあるのではないかと私は考えます。
その人が本当に望んでいることは何なのか、それはその人自身が作り出してしまっているペルソナによって歪められてしまっていて、それによって辛くなっていないか…
それを聞きに行くのが無礼講のようなお酒の席ではなく、業務時間中にやるのが「対話」ですね。
最近は、コーチングではなく1 on 1というミーティングのスタイルが話題になっていますが1 on 1で行うべきなのは役割を越えての対話を通じ相互理解ではないかなと私は考えています。

役割はその人自身ではありません。
しかし、人間は社会生活をする上で、人の中で生きてゆく上で、なんらかの役割を自分で作り出すか、誰かに与えられてしまっているのは事実だと思います。
大切なのは、役割とその人本来の姿を分けて考えて、本来の姿に興味を持って同じ人間として接してゆくことではないかな、と私は思います。

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