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選択、キャリアショック、そして成長

人生の中で起きたこと全てに意味があると私は思っています。
「意味」は起きている最中、その真っ只中にいる時には気づくことは殆どなく、過ぎ去った過去になって振り返ってみて初めて、そこに意味があったことが見えてくる、繋がってくるものではないでしょうか。

仕事人生を振り返ってみると、思い出すのも憚れるほどの辛く苦しい経験があって、そこから立ち直る過程で大きく人は成長する…
私の場合は、40代前半に起きたキャリアショックがそれだったように思います。

慢心

私は社会人のとしてのキャリアを営業からスタートしています。
高校時代に人生を大転換させる出来事があった後、就職するにあたっては「食ってゆくために自分ができること」を優先し、アルバイトなどから接客ならばできるかもしれないと考え(というか、それしかできないくらいに思っていたかもですが)、配属先が営業になった時には、納得感とやる気に満ちていました。

私の営業時代のことについては、以下のnoteでご覧いただけます。
楽しかったですし、学びも多く、人生の肥やしになっていると思っています。

その後、家族の事情(親の介護)により営業を続けることが難しくなった私は、本社のマーケティング部門に移りました。

マーケティングの仕事は営業とは異なるスキルを求められましたし、外資ゆえに英語も多用するためかなり鍛えられた実感がありましたけれど、営業の現場を知ってる強みもあり、2−3年で仕事にはすっかり慣れました。

当時、業務のIT化が始まったばかりだったこともあり、パソコン関係に(同僚よりは)精通していた私は、マーケティング業務のほとんどを改革しつつ、幾つものプロジェクトを同時にこなしてゆく仕事をしていました。
それら全てを問題なくこなし、評価も最高点をもらい続けていたので、事業部において一番できるヤツは俺だ、ぐらいに思っていたと思います。
まぁ、一言で言えば、狭い世界で慢心していたわけです。

不満

仕事をしてゆく上で大抵のことは迷うことなくできるようになってきた反面、当時最もストレスに感じていたのが、管理職にもなっていない自分が年上の同僚に指示命令をしなくてはいけない日常であったことでした。

業務革新プロジェクトのリーダーをしている中で、行動を起こさない同僚のメンバーにかなり強い調子で指示をしなくてはならない…
あの手この手で動いてもらうようにするのですけれど、管理職でもない一兵卒のいうことなど意に介さないベテラン社員には手を焼きました。
自分が言いたくない言い方をしないといけないこともあって、体育会で「先輩を敬う」を叩き込まれていた私にとっては、それが何よりの苦痛でした。

正直にその心持ちを上司に相談し、「管理職にしてくれないか」と言いました。
部下が欲しいとかそういうのではなく、自分がリーダーとして周りから認知されるだけのオーソリティをつけて欲しいというのが動機であり、昇進したいとか昇級を望んでいるわけではありませんでした。

が、上司は困った顔をしながらこう言いました。
「君が頑張って活躍してくれているのは認識してるし、ありがたい。でも管理職となると順番があってさ、3番目なんだよ。あと2−3年待てないか」

は?

そう、典型的な年功序列です。私より先に、私より仕事してない先輩や同期(年齢は上)を先に管理職にするから、それが終わるまで待ってくれ、という意味でした。
当時、人事でもなんでもなかった私はこの「年功序列」というナンセンスに全く納得がいきませんでした。

脱出

あと2−3年、この苦痛なリーダー役を続けるのか…
そう思っていたとき、会社が社内公募制度を導入しました。外資ではジョブ・ポスティング(Job Posting)と呼びますが、広く社内から特定のポジションに社員が自分で応募でき、応募に当たっては上司の承認は不要というものでした。

公募職種を見ると、人事部が「SFE(Sales Forces Effectiveness=営業改革)担当リーダー」を募集しており、条件に営業経験とマーケティング経験が明記されていました。
これならば自分の知識と経験が間違いなく生きるポジションだと感じた私でしたが、正直悩みました。
人事の仕事など全く知らない自分にできるんだろうか?と

大事な人生の選択になるだろうと思ったので、カミさんにも相談したところ「お父さんに相談してみたら」とアドバイスをくれました。
私の父はすでに他界していたし、生きていたとしても医師でしたので企業のことがわかる人ではありません。一方、義父は企業で取締役をやってる人でした。
結婚以来、仕事のことで相談したことはありませんでしたが、「実は悩んでおりまして」と相談したところ、存分に話を聞いてくれたあと、
できると思うのであれば、やったみた方が後悔しないんじゃないかな」
と背中を押してくれました。

義父のおかげもあって決断ができた私は、その必要はないのですけれど再び上司と話をしました。

「社内公募制度で人事のポジションに応募しようと思います。自分のスキルや経験がいきますし、社内の他部門のことをも知ることができる。
受かれば異動となります。受からなかった場合は引き続きお世話になります。
本来は上司に告げる必要はないそうですが、コソコソやるのは嫌なので申し上げておこうと思いました。」

そして、私は見事合格し、営業、マーケティングと16年過ごした事業部門から脱出し、人事本部の能力開発部門に異動となりました。

配転

人事に移ってからの仕事は楽しくて仕方がないものでした。
全社で28の事業部門があったのですが、そのすべての事業部長と営業部長にヒアリングを行いながら、それぞれの部門の営業力として必要な能力を分析しつつ、KPI(営業活動指標)を設定、能力開発とコーチングまでのフレームを一年で完成させ、米国本社の人事のトップから表彰されるという、快調なスタートでした。

そして、その業績も認められたのでしょう、異動したばかりのその年の秋口に管理職(部下なしでしたが)に昇進もしました。

が、しかし。
昇進した後に、副社長から呼び出され、思いもかけないことを言われました。
「来年から経営企画に移ってくれないか」

え?

新設された社内公募制度には縛りがあり、一旦異動となったらそのあと3年はそのポジションから転部することはできない、となっていたので、私は自分が何かまずいことでもしたのかとドキドキしました。
が、副社長が言うには、「一年でやった営業改革を今度はマーケティングに対してやってもらいたい」とのことで、何かの罰ではなく更なる期待であると言うのが分かりました。

副社長から直々に頼み込まれて、断れる私ではありませんでした。人事以上に経営企画は自分にとっては正体不明な部門でしたが、
「分かりました、お受けします。しかし、せっかく人事に来た私はまだ人事について分かっていないし、やり尽くしていないと思っています。ミッションを1年で完結させますので、その後人事に戻してください」

副社長が言うには、マーケティングは営業よりも能力開発の課題が山積しているからどう考えても1年では無理、2年頑張ってみてもらいたいとのことでした。
2年かぁ。。

暗転

経営企画本部に異動になった私には部下が4人付きました。
私のミッションは、マーケティング能力の強化でしたが、それ以外にも全社中期計画の策定やマーケティング・リサーチなどの業務がありました。

やってることはよく分からないけれど、自分には事業部経験もあるし、なんとかなるだろうと思っていましたが、、、
待っていたのは、精神的にかなり追い込まれる状況でした。
細かく説明するとキリがないので、要因を上げてゆくと…

・経営企画本部はリストラ直後で、人員が34名から半分の17名になっていた
・残った人たちのモチベーションもモラルもとんでもなく低い状況だった
・上司の本部長は性悪説に立って人を見る人で、褒めるよりも貶すのが先だった
・4人いた部下のプライドが高く、事業部門のマーケティングをバカにしていた
・社長や役員の都合で、仕事の優先順位が簡単に変わってしまった
・知らない用語や知識が多く、知らないと部下からも同僚からも軽蔑された
・「自部門をリストラした人事から来たヤツ」という目で見られ、疎外された

と言う具合に、思い出すだけでも辛いですし、もっと色々あったと思います。
特にキツかったのは、上司の性悪説と、部下から馬鹿扱いされ言うことを聞いてもらえないことでした。
実際、この部門で自分が活躍するためには、今までの経験や知識、能力とは別のものが必要でした。
自分が通用しないことを思い知らされる、まさしくキャリア・ショックでした。

死兆

毎日受け取るストレスには凄まじいものがあり、会社に入って初めて「会社に行きたくない」と思うようになりました。

まず、夜眠れないのは当たり前でした。いろいろなことが気になって悪夢を見ているのか現実なのかが分からない状態…
おそらくは寝ていたのだと思いますけれど、全く寝た気はしてませんでした。

朝起きるとシャワーを浴び、髭を剃るなどの身だしなみを整えるのですけれど…
シャワーを浴びている間に、自分も訳が分からないのですが涙が止まらなくなります。泣こうと思って泣いているわけではなく、自然に出てくる涙が止まらないのに、体は勝手に会社に行く支度をしている感じです。

カバンを持って家を出る頃には、自分の感情は完全にオフにした状態になり、無表情・無感動のまま最寄りの駅に向かいます。
しかし、足取りはフラフラしているようでまっすぐ歩けてませんでした。

何度か、死ぬ、と思ったことがあります。
マンションの高層階で、手すりの外に大きく体が飛び出して落ちそうになったり、ホームを歩いていたら気づかないうちに白線の内側を歩いていてホームに落ちてしまい、駅駅員室に呼ばれて猛烈に注意されたり…

何度か危ない目にあっているうちに、ふと冷めた頭になって気づいたことがあります。投身自殺や飛び降り自殺する人って、やろうと思っているんじゃないんだって…
あの世から呼ばれるんです。何かに。
フラフラと無意識に歩いてるとそれに呼ばれるままにそっちに行ってしまうんだな、と。

そう言うのがわかってくると、怖くて堪らなくなりました。
このままでは殺される…
震えながらそう思いました。

浮上

あとで考えると、明らかに鬱状態だったのだと思います。
ですが、ここでこのままではヤバいと危機感を感じたことで初めてカミさんに打ち明けることができました。
毎日が辛くて、毎朝シャワーの中で涙が止まらないこと、フラフラと無意識で歩いていて何度も危ない目に遭っていること、会社で何が辛いのか…
情けなかったですが、洗いざらいを吐き出すように打ち明けました。

「そんなに辛いのなら、会社辞めていいのよ」

カミさんからの思いがけない一言でした。
おそらく彼女からみても私の状態は異常事態だったのでしょう。当時は彼女も働いていたので、それでなんとか生活はできるし、と。

ありがたい…
素直にそう思いました。ほぅっと肩から力が抜けて楽になってゆく感覚がありました。
同時に、こんなにも苦しい思いをしていたのだなと自分自身で気づきました。
この時のカミさんの一言は私を救ってくれたと思っていますし、この一言のおかげでカミさんとは一生一緒にやって行けると思えました。

そこから、です。
じわじわとエネルギーが湧き上がってきたのは。ここままじゃいかん、と。
そして、あらためて自身に誓ったのは、
絶対に人事に帰る、そのためにここで必ず結果を出す
でした。
経営企画に異動して一年が経とうとしていました。

そこから私は、自己変革に取り組み始めました。
具体的には、経営企画部の仕事に役に立つようにビジネススクールに通いながら、一方で人事のことを勉強したり、スキルアップのためのトレーニングも様々なものを受けました。○○トレーニングとか名の付くものは片っ端から受講していたように思います。金額にすると外車が楽々買えるほどの総額でした。
今振り返ってみても、一生の中で最も連続的に勉強した時期でした。

そうしてるうちに次第に、上司も部下も私を見る目が変わってきました。
学んだことはすぐにアウトプットしていったことで侮れないと思われたのかもしれません。結果もついてくるようになりましたし、結果がついてくると部下や上司も信頼してくるようになるという好循環が回り始めました。

また、社内だけでなく、社外でも実力を認められる機会が出てきたことで、ようやく私にも「やっと現職で通用するようにはなったかもしれない」との実感も湧いてきました。
会社という狭い世界だけでなく、外でも通用するようになったあたりから、自信ができ、自信があるからこそ強気の活動や言動ができるようになります。

底は抜けて浮上しはじめた…
そう思えた私は、自分へのOKを出せました。

直訴

経営企画に移って2年が経った頃には、副社長と約束したマーケティングの改革も明確な成果が出ましたし、その他でも数多の経営企画プロジェクトを完遂させることができていました。
その一方で、最初は全く興味が持てなかった経営企画の仕事が面白くなってきている自分がいました。
部下からも周りからも頼りにされ始めていたので、このまま居ると抜けられなくなるのでは、と思い始めました。

そんな折、外部採用で新しく女性の人事部長が入ってきました。
経営企画に居ながらも、マーケティングの能力開発という意味では人事とのやり取りが続いていた私は彼女とも顔合わせをし、人材開発についての意見交換を何度も繰り返ししました。
その際には、自己投資をして学んだきた知識やスキルが大いに役に立ったのは言うまでもありません。

彼女のディスカッション・パートナーのようになる一方で、「この先のキャリアをどう考えているの?」と聞かれたので、私は自分の正直な気持ちとして人事に戻りたいと彼女に告げました。
「戻れると良いわねぇ」
彼女はニンマリと微笑みながらそう言いました。

彼女に気持ちを吐露したあと、自分の気持ちにあらためて気づいた私は、副社長にアポイントを取りました。そして直訴したのでした。
「副社長、約束通り2年でミッションはコンプリートさせました。それは認めていただいていますよね?人事に戻してください。」

副社長がとても困った顔をしていたのを覚えています。それほど私は思い詰めた顔をしていたのでしょう。異動させないならば会社を辞めるぐらいの勢いの。
「うーん、半年だけ待ってくれ」

そして半年後、副社長の約束通り、私は人事に戻りました。
いやにすんなり行ったなと思っていましたが、おそらく人事部長の彼女の口添えがあったのだろうと今は思っています。

成長

それ以降、私はずっと人事部に所属しています。
転職をしたので会社こそ変わってはいますが、転職先でも人事。そしてキャリアの最後まで人事を務めることになるので、キャリアの中で最も長く人事にいたことになるでしょう。

理不尽な年功序列に対する閉塞感から、全く異なるフィールドに飛び出すことを選択した私は、飛び出した先で遭遇した荒波の中でもがく事で、今の自分につながってくる全てを手に入れていったのではないか、と今振り返って思います。

経営企画への配置転換から「何が何でも人事に戻る」と決め、慣れない環境で結果を出すため、そして次の世界で通用するために学び、実践してきたことで培われた能力だけでなく、誰が相手であろうと自分のやりたいこと、言いたいことは主張してゆくというスタンスはあの時にできたのだな、と。

そう考えると人生って不思議なものです。
人事に行こうと選択をした時には、自分の能力よりも「このままここにいては行けない」という直感のようなものだけがあり、それを信じていました。
「これが自分を生かす新しい道なんだ」と。

そして、自分で選んだからこそ、その後に配転されたとしても何がなんでも戻ってやることをやろうと頑張れた
自分で選んだからこそ、どん底の精神状態から這いあがろうと足掻き、自身の強化に努めた。それをみた周りの人たちが手を貸してくれた
それが結果的には、能力的にも、そして多分人間的にも自分を成長させたのかなと思っています。

マトリックス3という映画での主人公のネオの言葉を思い出します。

Because I choose to..
自分の選択した自分の未来にとことん拘ること。
それができたからこそ今の私があるのかな、と今の私は思っています。

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