湖畔の天幕生活 (二)
湖畔の天幕生活 (二)
三
◇湖畔の夕暮れは寂しいものだな
――湖の岸にしやがんで食器など
を洗ひながら、私はふとうしろを
ふり向いてみた。背には樹立の深
い山、隣りは桑畑、そして前には
一間道路を隔てゝ、すぐ、ひた/\
と冷たい波が、石垣を洗つてゐる
湖があるばかりではないか。ど
つちをみてもたゞまつ暗である。
今のさき、ほつかりと老人達の家
に、洋燈が點されたところだ。
◇四人の若者のする夕飯の仕度は
がや/\と騒ぎまはつてゐるうち
に出來上つてしまつた。老人は洋
燈の下に寢轉んで澁團扇で、バタ
/\蚊を追つてゐる。その傍には
いつの間にか老人達の食べるもの
が出來でゐる。
「お前方もわし達と一處にこの座
敷で食べたらいゝズラ」老人は
さう言つて呉れる。よほど嬉しさ
うである。さうだらう、こんな淋し
い岸邊の一軒家で、每日のやうに
一つ事を繰り返し繰り返しゝて
暮らしてゐるのだ。
◇たとへそれが味の深い枯淡な生
活であつたとしても、ずゐぶん、退
屈な話ではあるまいか。そこへふ
いと、都から元氣のいゝ若者が、
しかも四人も揃つてやつて來て、
彼等の生活の中へをどりこんだの
だから。
◇洋燈の下に、私達の膳が竝べら
れる。Y君のこしらへたハムエッ
グスと、海苔の佃煮とで、私達の
夕飯ははじまる――眞夜中の二時
から、夕方の四時すぎまで掛つて
炎天の山道をあ江ぎ乍ら歩るいて
きた私達は、もう疲れきつてゐる。
疲れてゐるといふ感じのほか何の
感覺もない。併し、この老人達の
親切と、自分達の手でつくられた
夕飯のうまさには救はれなければ
ならない、そしてほんたうに救は
れたのである。
◇船津の町は向ふにみ江る。そ
の湖岸の家の窓からはぽつり/\
と、橙色の明りが湖面に映りだし
た。湖面には小波さへないとみ江
て、その明の水面に長く曳いた影
はすこしもゆれない。
「ほらもう、さかさ富士が、よく
見江だしたぢやらう」
老人が箸を休めて、こう言ひな
がら、指すあたりをみると、成程
湖面いつぱいに、黒い富士山の倒
影が、はつきりと映つてゐる。山
の頂きにあたるところは、手の届
きさうな近くに迫つてみ江る。長
い笹竹でなら、こゝに坐つてゐて
も、あの山頂の影をかき亂すこと
が出來さうである、實際それをみ
つめてゐると、そんな氣が起つて
くるほどである。
◇靜かな夜景ではないか――私達
は夕飯を食べ終つてからも、長い
間無言のまゝ、このもの靜かな前
景にみとれてゐた。
「この家はつひ二月ほど前に出來
上つたばかりぢや。わしの山の
木でな。夏のうち、わし達は漁
をするのが道樂ぢやからな。こ
ゝからなら湖心へも近いし。そ
れに晝は日が照り返つて暑いけ
ど、朝晩は涼し過ぎるほどぢや。
わし達はあの淺川村に昔から住
んでる者ぢやが、今は伜に家は
ゆずつてしまつて、こゝへ隠居
しとるのぢや。これと言つて用
もないから、朝は早う船で漁を
しに出て、午頃歸へつてくると
晝寢をするばかりだ。こんな暮
しをしとるもんぢやから、わし
達は日を忘れることがよくある
この家のうしろにある山は、自
分の先祖から貰つた大切な寶だ
この間も、この山の中腹に觀光
ホテルとかを建てたいから山を
賣つて呉れと言ふてきた人があ
つたが、わしは馬鹿をいふなと
いつて相手にならなかつたのぢ
や。なんでも十二萬圓出すいふ
ことぢやつたが。わし達には金
など要らない。それに高が十二
萬圓位でこの寶を他人出に渡し
たといつちや、わしが先祖に顔
向けが出來ないからな――實に
こゝは美い處だ。これほどまと
もにさかさ富士が見江る處は此
處だけぢやからな。だから山師
共が此處へ眼をつけて高い錢を
出さうとするのも無理のない話
ぢや。しかしわしは賣らん。ど
んな事があつても賣りやせん」
◇どつちかといふと無口らしい老
人は、茶呑話としては餘り眞剣な
ものを含んでゐるこんな話を、ぽ
つり/\と語つてくれた。そのう
ちに私達は晝の疲れですこし眠く
なつてきた。時計をみると八時に
ならうとしてゐる。
「山へ上つて、もう寢やうではな
いか」
誰れかゞこう言ひだすと、みな
立上つた。私達は小田原提灯に灯
を入れて、戶外へ出た。
◇左の方の山の端をみると、多分
そこから月がのぼるのであらう、
ぽーッと靑白い光がいちめんにひ
ろがつてゐる。おゝ、これは素敵
だ。おまけに今夜は十六夜の月が
のぼるではないか。私は山の亭で
みる月の美しさを想像して胸をお
どらせながら、山道をのぼりだし
た。岸に繋いである老人の漁船が
波を食むのであらうピシャリ/\
といふ音がきこ江てくる。風でも
出て來たのだらう。私がいちばん
先きに提灯をぶら/\させ乍らの
ぼる、そのあとへY君、そのつぎ
にT君が又、提灯をさげてゐる。
O君は殿りだ――あんまりうま
く道がついてゐないうへに、山が
岨しいのでともすると足が辷る。
そのたびに、提灯が大きくゆれる
若しこれを遠くから眺めたら、私
が幼い時によくみた狐の嫁入にで
もみちが江られることだらう。
(越後タイムス 大正十二年九月二日
第六百十三號 七面より)
(全5回)
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