見出し画像

湖畔の天幕生活 (一)

湖畔の天幕生活テントせいくわつ (一)

    一

◇私としては始めての經驗といつ

てもいゝ、こんどの天幕テント旅行のこ

とを、すこし書きつけてみやう。

氣に入るかどうかは知らないが。

私達が目指したところは、甲斐の

國の河口湖畔である。西湖にしのうみ精進せうじん

湖、本栖湖、山中湖と共に、富士

五湖と呼ばれ、富士山の裾をとり

まいてゐる名高い湖の一つである

◇天幕は三人用のもので、屋根型

である。それは、友達のY君がそ

の學校時代に使つたものを借して

くれた。Y君は去年、北海道の内

地を天幕旅行したほどの經驗者で

ある。だから、こんどの旅行にあた

つても、いろんな、注意をしてくれ

たのである。リュックサックも、普

通のものよりは、ずつと大きく、

ポケットなどにも、行届いた注文

をしてつくつたものである。鍋だ

の湯沸しだの、フライパンだの、そ

のほかいろんな飯炊き道具一切と

鑵詰、米、調味料、藥、靴墨(こ

れは、焚火をするときに役立つも

のである)などと、毛布を三枚――

まあ、さういつたものを、三つのリ

ュックへ割りあてゝゴタ/\とつ

めこんでみると、その一つだつて

ずゐぶん重いのである。

◇こんな大きなものを背負つて、

八里もの山道が歩けるものかしら

と、一体に身体の餘り丈夫な方で

ない私は、すこし心配であつた。

で、このことをY君に話すと、彼

は「河口湖行ぐらゐは、天幕旅行

の尋常一年生ですよ」と言つて笑

ふのである。

◇成程さういはれてみると、女學

生だつて函根の仙石原で天幕生活

をした話を、雜誌か何かで讀んだ

覺江がある。だから私の心は、私

の年相當な若者らしい元氣とあこ

がれから、天幕生活などといふ珍

らしい生活に、すつかりひきつけ

られていつて、へんな心配なぞ、

いつの間にか忘れてしまつたので

ある。仲間は、Y君、T君、O君

私の四人で、氣の合つた友達であ

る。そしていづれも皆、無妻の若

者ばかりである。

    二

◇○○の町へきたのは夕暮れ近く

であつた。この町は、沓形をして

ゐる河口湖の踵とも云ふべきとこ

ろにつくられてゐる。この町は私

達に決していゝ感をあたへない。

どことなく、落付がない上に、旅

人の、へんな虚榮心を利用しやう

とかゝつてゐる様子が、あり/\

とみ江る。不愉快な街だ。こんな

町にぐづ/\はしてゐられない。

それでなくてさへ、天幕旅行者は

その夜の野營地を、いち早く見つ

けださなければならないのだから

嫌な所にぐづついてゐてはいけな

い――皆はこう思つて重い足をは

げましたのである。

◇○○の町の船着場に立つて、眞

向ひをみると、恰度、踵のくびれ

のところに、岬がつき出てゐる。

「あの岬だ。あそこがいゝ」Y君は

へこたれかゝつてゐる三人を元氣

づけるやうに、ぐん/\と歩るき

出したのである。右側は山、左側

は湖水、その間を一間道路が、そ

の岬まで續いてゐる。その中途に

淺川村といふ、小村があるきりで

○○から河口村までの間に人家は

ないのである。夕飯の用意のため

に、卵だの、醤油だの、野菜類だ

のを分けて貰ふつもりで、私は淺

川村のとある一軒の百姓家を訪ね

た。すると、わづか十町とは離れて

ゐないこの村の人々は、○○なぞ

の人間に比べて、何んという、純

朴な好意と、心からの親切と、原

始的な、平等愛とを持つて、見知

らぬ旅人をいたはつて呉れたこと

であらう!

◇私達はそこで十分用意を整へる

ことが出來た上に、そこの上さん

は私達に次のやうなことまで語つ

てくれた。「あそこに見江る岬のそ

ばに、たつた一軒、家がある。そ

こには、この村の人で、爺さん、

婆さんが、隠居の道樂に、夏の中

だけ、漁などをするために住んで

ゐる。その人は大變、親切な人で

天幕でくる人などには、自分のこ

とのやうに、いろ/\世話をして

くれる。あなた方も、あの家へ行

つて頼んでみたがいゝだらう」と。

◇私達はすつかり喜んでしまつた

その家を出て暫らく歩るいてゆく

と、恰度、富士山と湖をへだてゝ

ま向ひになる。よく晴れた夕方で

茄子色の山の全景が、美しく湖面

に倒影してゐる。私はこの絶景に

み惚れてしまつた。疲れがどこか

へいつてしまつたほどである。や

がて、さつき話にきいた家の前へ

やつてきた。芝居の無臺裝置のや

うな、八畳一間しかない、開けつ

ぱなしの家の中に、なるほど、爺さ

ん、婆さんが、私達の方をみて笑

つてゐた。

◇私達は正直に、この邊に天幕を

張りたいのだがと話しかけてみる

と、話にたがはず、二人は口を揃

へて、「この山の上にいゝ所がある

この邊の山は、ずつと先きまで、

わしの山だから、何の遠慮もいら

ない。すこし、上り下りに不便だが

水だの飯だのは、わしの家で用達

せばいゝから、早く日の暮れきら

ないうちに天幕を張つて來たがよ

からう」と言ふのである。私達は

再び元氣づいて、山を驅け上つた。

さう、三十丈ものぼつたかしらー

その位のところに、爺さんが、晝

寢をするためにつくつた、仲々氣

の利いたあづまやがある。恰度、

山の中腹で、樹に圍まれてはゐる

が、そこは、二十秤餘り平地になつ

てゐる。

◇こゝなら、風に吹き飛ばされる

惧れもないし、雨の流れ込む憂も

ない、おまけに、河口湖は眼の下に

見はるかされるし、富士山とは、

ほんたうに向き合ひではないか。

喜びが手傳つて、たちまち天幕は

出來上つてしまつた。さあ、もう、

夕飯を食ふだけの話だ。私達は、

夕闇の迫つた、氣味惡るく暗い山

道を、ともすると、辷りがちになる

足を踏みしめ乍ら驅け下りたので

ある。(未完)

(越後タイムス 大正十二年八月廿六日 
       第六百十二號 二面より)


#テント #キャンプ #アウトドア #河口湖 #富士山 #大正時代
#越後タイムス #エッセイ #逆さ富士


ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?