安心感のための勉強をやめる

私は時間があると読書をすることが多いです。速読ができるというわけでもなく、内容も割と重いものが多いので、実際に読めるのは多くても年間50冊程度だと思います。とりあえず買うのも含めると、年間100-150冊くらい手元に増えます。しかし、本や論文を読むことは本当に良いことなのでしょうか?今日は学生時代から私が抱いている、安心感を得るための勉強からの脱出について書いてみます。

勉強するってどういうこと

まず、私が思う安心感を得るための勉強とは、既に存在する知識を単に知ることです。私をそういった勉強へと突き動かす心理は不安です。みんなはあれを知っているから私も知らないといけない、みんなよりも詳しくないといけない、先回りして情報を集めとかなければいけない。そんな不安が私を突き動かします。読書習慣がついたのは修士過程になった頃からなので、今のペースで本を読み始めて8年くらい立ったでしょうか。しかし、一見すると良いことに見えるこの習慣に私は疑問を抱いています。

研究するってどういうこと

本来行わなければいけないのは、未知の発見や、新しい価値の創造です。そしてそれが研究だと思います。別に学問の探究だけでなく、新規事業創出でもいいですし、起業でもいいです。新しいことを自分で始める時にはきっと研究的なことをしないといけないはずです。研究するのに知識は役に立ちますが、一番重要な要素かと聞かれればそうでもないような気がします。それよりも、疑問や欲望が原動力として必要だと思っています。自然発生的にせよ、意識的にせよ、自ら目標を打ち立てるところから道は始まります。そして、そこに至るアプローチを考え、試し、結果を考察し、アプローチを修正し、試し.....と無限の試行錯誤の渦へ身を沈めます。ただ、これが不安になる時があります。その時に私は読書に逃げてしまう癖があります。そこには、どんな心の動きがあるのでしょうか。本や論文などの文献を読むのには、2つの種類があると思ってます。

一つは積極的な動機から行うsurveyやresearchです。積極的な勉強と言ってもいいかもしれません。これは、自分が持っているテーマを体系的に位置付けたり、ヒントを得るために重要です。新しい視点の獲得や次のテーマ創出を目指すのもこの範疇です。

もう一つが、漫然とした勉強だと思います。ここでは、勉強を少しネガティブな意味で使っています。何をしていいかわからないから、動くのが怖いから、あれもこれも知らないと不安という心理状態から発生する、消極的で脅迫的なものです。将来的には役に立つのかもしれませんが、もし既に何かも始めているのであれば、逃げの姿勢になっているかもしれません。タイトルの安心感を得るための勉強とは、このような動機からくる勉強姿勢を指しています。

どうすればいいか

明確な答えは持ち合わせていないです。ごめんなさい。でも、答えがそこにあるというのは幻想であり、そこには何もない。そう知ることが第一歩だと思います。そこは単なる紙面という意味ではなく、私たちの消極的な姿勢を通して紙面をみたときに現れるそこです。

先ほど言ったように、積極的な勉強や読書は研究の一環だと思いますが、消極的な読書は安心感しか与えてくれません。なんなら時間を奪っていくのでマイナスかもしれません。参考書を開けばそこに答えがあるという、高校生的な習慣の名残なのでしょうか。そもそも、高校と大学以降の決定的な違いは、問題を自らが設定するか否かにあると思っています。きっと安心感を求めるだけの勉強というのは、問題に対するHOWを探すという意味だけではなく、問題そのものであるWHATやWHYを漠然と求めてしまう姿勢の現れかもしれません。

大学以降は未知の問題を扱わねばならず、本の中に答えを見つけ出そうなんていう考えは成り立たないと頭ではわかっています。それでも、研究や仕事に詰まると、漫然と本を漁ることがあるわけです。「なんで本読んでるんだっけ?」と自分に問いかけ、本を置く勇気を持つことが大切だと思っています。そして、これがなかなかに難しいんですよね。

「若いうちは論文をたくさん読みなさい、しかし、読みすぎてはいけない」

以前にも紹介したかもしれませんが、東京理科大学の故・関根先生が講演会で言われた言葉です。若いうちは基盤となる知識と体系的な思考を身につけないといけないので、大量に論文や本を読む必要があります。ですが、それには弊害もあります。それは、他人の思考に染まることです。それが「読みすぎてはいけない」の言わんとするところです。

ものを考えるのに、体系的で膨大な知識は強力な武器です。特にナレッジワーカーと呼ばれる人たちは、これこそが飯の種なわけです。一方で、誰かの思考パターンに強力に染まることは、新規性から遠のく可能性があります。これは、新しいことをすることに価値を見出す人々にとっては致命的だと思います。

もちろん、人の思考は構成的なものなので、ゼロから生まれるわけではありません。知らず知らずのうちに内面化され、自分が形成されます。つまり、自分は他人、そして触れ合ったモノやコトの総体だと思っています。それらの完全なコピーではないですが、それらの影響で作られているわけです。私たちの目標は、それまでになかった色を発明することです。そういう意味で、偉大な賢人たちの思考に染まりすぎてそれが全てだと思ってはいけないと思っています。その外にも世界は存在するという認識を持つことが重要なのではないでしょうか。

巨人の肩の上に立つ(改めて調べたら、ニュートンがオリジナルではなく、シャルトルのベルナールという人の発言を引用しているみたいです)。私はこの言葉が好きです。いつの時代でも、今を生きる人は、歴史上もっとも知識が積み上がった瞬間に存在しています。つまり、歴史上誰よりも高いところに到達できる権利と可能性を持っています。もちろん、同時代人と比べると一番にはなれないと思いますが、歴史上で見ればもっとも高い地点に行ける権利を持っています。そう考えると、消極的な私は本を置き、積極的な私が本を開く気持ちになってきます。皆さんはどうですか?

おわりに

今週は姿勢や態度に関する内容だったので、かなり個人的な意見になってしまいました。理屈の上で納得できても、実行に移せないのが人間の悲しい性ですね。勉強を否定しているように捉えられると、本意ではないので強調しますが、目的のない勉強や答えをそこに求める勉強は不毛なんじゃないかと言っているだけです。探究心を持ち、楽しみを感じ、その先に広がる世界に心躍らせる、そんな思いを持ち勉強をしたいです。巨人の肩を利用させてもらいましょう。

それにしてもなぜ日本語の理系専門書はkindleが出ないのでしょうか。正直、分厚い専門書こそ電子版を出して欲しいですよね。


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