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No,248.結局は弱い自分を知ることこそ強さ!


はじめに


小学生の時から団体競技や個人競技などいろんなスポーツ(たまに頭※7:3)をして身体を動かしてきました。

その理由を考えると、純粋に上手くなりたい!強くなりたい!と思っていたからだろう。

若い時は強さ=勝つことのみ真である理論で単純なものでしたが、最近は個人競技である格闘技の強さについて考えることが増えてきました。

どうしても数値化したくなったので、過去に分析を実施したこともありました。

残念な結果でした。
【格闘技歴が長い人ほど暴力に頼らないと思っていましたが、格闘技歴が浅い(期間が短い)、深い(期間が長い)に限らず、暴力(身体的攻撃)に違いがないことが示された】

※この統計分析は社会科学です(社会心理学、経済学、法学、教育学、政治学など)。心理や政治、経済といった語彙からわかるように、社会科学は社会を扱い、社会は常に流動的であり、なお且つ人々の行動や属性によって結果が異なります。そのため社会現象や人間の行動を理解するには多角的なアプローチが必要です。

筆者の考え

強さとは何ぞや?

単純に「勝った方が強いでしょ?」といったことではありませんのであしからず。
一応わかりやすいように図にしてみました。
この図でもわかるように「勝った方が強いでしょ」はルールに制限された局所的な「強さ」なのはわかるだろう。

筆者作成

ここでの話は、真(芯)の「強さ」についてです。

スポーツで、人として「強い」ならば試合に勝つのではない。また、試合に敗れたならば人として「弱い」、のでもない。本心を貫き通した、人として「強い」敗者がある。それは、真剣にスポーツに取り組む者にとって自明とさえ言える。

照屋(2010)

「強い」を辞書で引くと、「力量や技量がすぐれている」「丈夫で物事に耐える力がすぐれている。抵抗力がある」「精神的に抵抗力がある。多少のことでは動じない」「(ある分野に対して)知識や能力を十分にもっている」と書かれている。

強い人(人にとって強い)については、古くから、「人である」「人として生きる」こと、「人にとって、本当である」ことを目指し修行した禅僧、哲学者らがいる。
また「人にとって、強い」ことを目指し修行した剣の達人らがいる。

江戸時代初期の剣の達人柳生宗矩(1571-1646)の禅の師であった沢庵(1573-1645)は、「不動智神妙録」という書簡で柳生宗矩に禅の立場から剣を説いている。沢庵が剣を通して語ったのは、無心という剣の真髄、人の生き方の真髄である。

つまり、剣の強さとは、人としての強さ、人間らしく生きられる強さを説いているのだろう。

総括

強さについて、古い文献や哲学の領域をもとに調べてみました。

歳を重ねることで、若い頃の身体能力の一部は衰えることは自明。しかし「歳を重ねて強くなった」と自覚する選手もいます。そうした選手は自分にとってどれほど大切かを感じ、知り、学ぶからだろう。
そうして得た経験や洞察力は、精神的な成長に寄与し、その精神力が自分を支え、強くすることが考えられる。
精神的な強さに支えられ、現実的な成功を収めていくこともある。
したがって、歳をとっても、自分の本心に忠実であろうとする強さは、本当の強さを築く一因となり得るだろう。

技は技術と戦略の習得、体は身体的な強さと柔軟性を指す。全ての要素をバランス良く鍛え、相互に補完しあい強さと思いやりのある人間形成を目指すこと。

このことは、格闘技に限らずスポーツ全般、学業、仕事に通ずるだろう。

さいごに

以上、「強さ」とは他者に向けるものではなく、自分(己)に向かうこと。

荘子に倣えば「知ることを許されなかった深い自分の本心を、万物の秩序をこじ開け自分の運命を切り拓いて学ぶ強さである」

最後まで読んでいただきありがとうございます(^^♪

引用文献


沢庵・池田諭訳(1970)『不動智神妙録』徳間書店、pp23-92

鈴木大拙(著)・北川桃雄(訳)(1940)『禅と日本文化』岩波書店、pp70-85

照屋太郎(2007)「スポ-ツ・武道,芸道が目指すものについての一考察 -達人の残した文献の解釈から-」『筑波大学大学院体育研究科修士課程修士論文』

照屋太郎(2010)「人の「本当の強さ」の意味-武道,芸道の達人の境地を考える立場から-」『体育・スポーツ哲学研究』第 32巻、第 2号、pp83-98


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