『すずめの戸締まり』感想 ~日本という「くに」、その忘却と葬送~
新海誠監督約3年ぶりの作品となった『すずめの戸締まり』。2022年11月11日の公開以来、100億円以上の興行収入となった前作『天気の子』に見劣りしないペースで数字を伸ばしており、紛うことなき大ヒット作品となっている。
同監督の直近2作と比較するに、本作の特徴としてまず挙げられるのは、「災害」の描写がより前景化していることであろう。『君の名は。』では隕石の墜落が、『天気の子』では終わらない降雨という自然災害が題材とされ、特に前者が東日本大震災のメタファーとして描かれているというのは新海の談である。しかし当該2作はボーイミーツガールとしてのストーリー軸が強く、災害にどのように対処していくのか、という観点から2作を鑑賞した人は、少なくとも多数派ではなかったのではないだろうか。
一方で、この『すずめの戸締まり』はその名こそ出さず、かつその作中の発生年も現実から1年ずらしているものの、東日本大震災を描いていることは多くの日本人にとって自明のことであろう。本作クライマックスで訪問した鈴芽の故郷が東北であること、「帰宅困難区域」との看板の描写、そして黒塗りされた鈴芽の日記の日付が「3月11日」であることは、その気づきを誘うものとして十分すぎるものである。だから本作を「東日本大震災をテーマにした作品」として捉えることは一つの正しい解釈であるし、そういうものとして、賛否両論を受けているところである。
しかしながら、私はこの作品をもう少し広い文脈でとらえてみたい。それは、この作品は「日本という『くに』の姿を、メッセージとして人々に提示する」という、ある種ナショナリスティックな性質を帯びているのではないか、という視点である。
1.『天気の子』の葬送
その側面に注目する前に、まずはその補助線として、本作における新海の『天気の子』からの転向に着目したい。
新海の商業デビュー作品である『ほしのこえ』はセカイ系作品の代表として名高い。セカイ系は「キミとボクの関係性が、社会と言う中間項を挟むことなく世界の危機・存続に直結する作品群」というように説明されることが多く、主人公の内省が「世界を救う戦い」によって彩られることで、あるいは世界の行方に優先するものとして扱われることで、その価値が強調されることに特徴がある。そして『ほしのこえ』も御多分に漏れず、少年少女の関係性の機微を「世界を救う戦い」で彩ることで、そのロマンチックさを高めている。
このような「内省への着目」というのは、新海の作品群を特徴づける一つの傾向である。新海の代表作である『秒速5センチメートル』は桜の美しい風景とともにある男の失恋をドラマチックに表現し、『言の葉の庭』は雨の風景とともに大人の女性への少年の淡い気持ちを風情豊かに描いていく。そしてその傾向が、上記の「セカイ系」への先祖返りのように先鋭化したものとして、前作『天気の子』は位置づけられるのはないか。主人公の帆高は、陽菜を「天気の巫女」として天に捧げればこの世界は降雨災害から脱することができるが、彼女を生贄の境遇から救うと災害が続くという二者択一を迫られる。そして帆高は、自分の陽菜に対する思いを優先して、世界を犠牲にして陽菜を救ってしまう。何事も顧みず、ただただ自己という「個」を優先するそのロマンはセカイ系を出自に持つ新海作品の一つの到達点であるとともに、「好きなことで、生きていく」といった個人主義的な標語が魅力を持つ現代の感覚にも、マッチしたと言えるのであろう。
しかし『すずめの戸締まり』は、この『天気の子』のプロットを反復したといっていいストーリーを紡ぎながら、その『天気の子』とは正反対の展開を進めていく。「閉じ師」として各地の廃墟を巡る草太と出会った鈴芽は、徐々に彼に恋心を抱くようになるが、彼女は物語の中盤で、草太を要石として生贄に捧げることで東京直下の大地震を防ぐか、草太を救うかの2択を迫られる。ここで帆高は後者を選んだわけだが、本作の鈴芽はたまらず前者を選んでしまう。もちろん帆高と鈴芽の間には、世界に迫る危機が降雨という暫時的な危機か、地震という急迫の危機か等で違いはあるものの、両作品における「個人か、世界か」の選択を主人公に提示する点での酷似性と、その結論の分裂は注目に値する。その二者択一を迫られたとき、本作は「個人」を選べないのである。
そしてその選択に追い打ちをかけるように、要石となった草太は力尽きる前に「こんなところで終わってしまう」ことの無念を嘆き、前職の要石であるウダイジンの鈴芽への執着は、彼が要石として過ごした期間の孤独の辛さを示唆する。本作は世界のために身を投げうつ者たちの被害者性をきちんと強調するわけだが、それでも、世界は彼ら彼女ら個人の救済に優先してしまうのだ。
そう、この作品は『天気の子』の道程を丁寧に思い出しながら、その上で『天気の子』と決別している。言うなれば、『天気の子』を葬送しているのだ。
こうした新海作品の「転向」を、例えば前作・今作の間で起こった大事件を引き合いに出して、「コロナ禍という災害を経験した私たちは、もはや個人を災害の抑止に優先させるロマンを無邪気に享受できない」と説明する向きもあるかもしれない。それは一つの解釈であろうが、しかしこの新海作品の「転向」の根拠は、むしろもっとわかりやすいところにあると思われる。それは一口で言うならば、この作品が「日本という『くに』を巡るロードムービー」であるがゆえの、転向なのではないだろうか?
2.日本という「くに」のいま
2-1.衰退の直視
本作の物語は宮崎の港町に始まり、そこから鈴芽が愛媛、神戸、東京と日本を転々とし、最後に鈴芽の故郷である岩手に至るロードムービーの形をとる。そして鈴芽は各地でその土地の人々と交流し、その土地のありようを目にするわけだが、そのストーリーは必然的に、この大海原に横たわる日本という「くに」がどのような風土であり、どのような文化があって、そしてどのような人がいるのかを描き出すものになる。宮崎では漁港の風景が、愛媛県ではみかん畑と家族経営の民宿が、神戸では地元の人々が語らい歌う古びたスナックが、そして東京では大都会の雑踏が、新海のあたたかく美しい筆致で描かれていく。そしてその多様で豊かな表情を見せる日本の各地で、東京オリンピックのあのスピーチではないが、鈴芽は現地の人々の「おもてなし」を受けていく。こうした描写は、この日本という土地に対する私たちの愛着心を喚起するものでもあろう。
しかし、この作品の描写は決して、例えば日本に来た外国人をインタビューするTV番組でありがちな「日本スゴイ」的信奉に囚われてはいない。むしろ鈴芽たちが日本各地で直面するのは、様々な理由で廃墟と化し、ミミズの「後ろ戸」と化した数々の土地である。人々の思いが残留している土地は後ろ戸が開きやすくなっており、要石の一つがなくなってしまった今、その危機はより高まっている。だから鈴芽は廃墟を巡り、その後ろ戸を「戸締まり」しなくてはならないのだ。
そしてその戸締まりの条件として、鈴芽はその廃墟にかつて過ごしていた人々の声を聴かなければならないわけだが、この行為は、例えば私たちが観光やSNS映えを目的に廃墟ツアーに参加することとは本質的に異なるものである。廃墟にかつて過ごしていた人々の声を聴くということは、ただ廃墟という「結果」に触れることではなく、「この土地はかつて繁栄していて多くの声が響いていたが、しかし、今ではそうでなくなってしまった」という「衰退」のプロセスを、受け止めることであるのだから。そしてその聞こえる声を、戸締まりという行為をもって悼む行為であるのだから。だから鈴芽の道のりは、日本の素晴らしさを再発見していく旅では決してない。日本の各地でみられる衰退を直視し、その土地の終焉を確認する。そういう行為なのだ。
思えば、鈴芽がめぐった廃墟以外の土地も、その多くはわかりやすい「繁栄」を示すものではなかった。家族経営の昔ながらの民宿、昭和の雰囲気に溢れたスナック。そして彼女の東北への旅路を彩るは、『ルージュの伝言』『夢の中へ』をはじめとする往年の名曲。彼女の道のりは、かつて元気だったころの日本を思い出させるようなノスタルジーが意識的に配置されている。それは、新海による「日本のいま」の、逆説的な描写とも言えるのだろう。
そのようにして、この『すずめの戸締まり』という作品は、日本という「くに」のいまを私たちの前に可視化してくれるパノラマとして機能するのだ。
2-2.「地震」という日本を貫く横串
もう一つ、この作品が「日本という『くに』」を描いた作品であると解釈したい理由がある。それは言うまでもなく、この作品が「地震」を真正面から描いていることである。
後ろ戸からミミズが出て、そのミミズが地面に横たわると災害が起こる。その災害は、別に豪雨だとか日照りだとかそういうものでも表現できそうなところであるが、本作はこれを他でもなく「地震」として特定する。そしてその地震を鈴芽たちが阻止する展開を、日本各地を舞台に描いたうえで、本作中盤の山場として、首都直下地震の危機をスリリングな展開とミミズの垂直落下という恐ろしいビジュアルで描き出す。
この怒涛の展開が私たちに思い起こさせること、それは私たち日本人が「常に大地震の危機に晒されている」という点で、皮肉にも強い共通性を持っていることではないだろうか。台風、日照り、突風と日本で起こる災害は数あれど、日本全国どこでも起こり、かつ一度起こると広域にわたり大きな被害をもたらす災害というのは、地震くらいではないだろうか。山の中の集落に住んでいる老人も、東京の中心で現代的な生活を謳歌するお金持ちも、「地震という大災害に遭遇するかもしれない」と言う点では、みんな同じなのである。
だからこそ、例えば阪神淡路大震災の時に見られた「地震の発生が首都東京でなくてよかった」というような、独善的な考え方は許されない。日本に住んでいる以上は誰がいつ被災者になるのかわからない。であるばらば、日本に住む私たちはお互いに連携し、誰が被災者になっても、他の誰かが助けてくれるような体制を整えておかなければならない。政治的・思想的な対立があっても、その点では私たちは立場を共有せざるを得ない。日本人が持つそういう「不幸な共通性」というものが本作は顕在化されていて、その点でもこの作品は、個々の日本人が持つ多様な「個性」よりもむしろ、日本という『くに』の「総体」の姿を捉えていると言えるのではないだろうか。
思えば、本作における「13年前の災害」は冒頭で述べたように明らかに東日本大震災なのであるが、そのことを明示する描写は、本作にはない。鈴芽が最後に向かった「東北」という目的地、「帰宅困難区域」という言葉、そして「3月11日」という日付でそのことが示唆されるのみである。しかしこれらの描写から「東日本大震災」を連想し、本作が何を描こうとしているのかを理解できるのは、おそらく日本人だけなのではないだろうか?(別の国に、「3.11」とは何の数字か?と問われて「日本の地震の日付」と答えられる人間が一体どれだけいるだろうか?)
そういう点で、本作はどうしようもなく「国民的」映画なのだ。日本という「くに」の姿を、他でもなく日本人に提示する。それこそが、この『すずめの戸締まり』という作品の営為なのだと思う。
3.日本という「くに」の過去
しかし、日本という「くに」の厳しい姿をただ提示する営為に、果たして何の意味があるだろうか。そんなことをされなくても、多くの日本人にとって、今の日本がかつてと比べて元気のない国であることは自明である。少子高齢化、地方の過疎化、経済成長の鈍化。そんなことはニュースで嫌というほど目にしているし、○○地震が10年以内に起こる可能性は○%・・・みたいな話もよく耳にする。だからこそ、私たちはこの日本社会、あるいは自然災害から目を背け、個人の刹那的な享楽を求めているのではないか。それなのに、そこに重ねて日本の衰退や災害を嘆いたり、あるいは昭和のノスタルジーに浸ってみせるのは、むしろ日本という「くに」から人々がますます目を背ける結果にすら、つながりかねないのではないだろうか。
そういう表面的で逆効果な「日本」語りに陥らないよう、本作は日本という「くに」の姿を描き出すにあたって、もう一つ別の重要な視点を備えている。それは日本という「くに」が積み重ねてきた、「時間」へのまなざしである。
草太の部屋で描写があったように、この「閉じ師」という職業の歴史は古い。そして古文書ではこれまで様々なところに要石が置かれてきたことが示されるが、これは過去にも要石が失われ、そして今回の草太のように、新たに要石となった者が複数いるということである。そして彼らは事故的に要石の役目から解放されるまでの間、悠久の孤独を過ごすのである。
だから本作冒頭でウダイジンが鈴芽の手で解放されたとき、彼は鈴芽の愛を求め、要石の役目を草太に押し付けるのである。孤独を脱する千載一遇のチャンスである。草太の犠牲をもってしても、要石の役目を他人に引き継ぎたいという彼の望みはとても責められるものではない。そして草太の祖父も、ウダイジンの失踪後、草太を新たな要石とした鈴芽の選択を肯定する。この世界は誰かが犠牲になり、維持されなければならないのだ。
しかし鈴芽が草太への愛を吐露し、草太を取り戻す決意を口にすると、草太の祖父は笑っていとも簡単にそれを受け入れる。そして、祖父の口調からして祖父よりも前の世代の人間なのであろうウダイジンに向かって、言外に、草太の代わりに要石の役目に戻ることをウダイジンにお願いし、ウダイジンは最終的にそれを受け入れるのである。鈴芽の主張は、日本という「くに」の存続という大局からすれば我儘以外の何物でもない。また、せっかく解放の機会を得たウダイジンにとって、祖父の願いはあまりにも酷である。それにも関わらず、祖父は、ウダイジンは、そういう判断をするのだ。
この祖父とウダイジンの判断が示すのは、いまの人間の価値と、過去の人間の価値との間にある勾配である。今を生きる鈴芽が、今を生きていた草太とともに生きることを望んでいる。であるのならば、犠牲になるべきは過去の人間だ。それを当然の前提として、祖父とウダイジンが共有しているということである。ウダイジンは「鈴芽の子になりたかった」という言葉からもわかるとおり、要石になる前は子どもであったことが示唆されている。いわば彼も鈴芽や草太と同じように未来ある存在であるわけだが、それでもなお、「今」を生きるひとびとのために、彼は自らの犠牲を受け入れるのである。
過去の人間の犠牲の上に、いまの人間が生きていく。そうしてこの「くに」は紡がれていく。そのことを、彼らは当然のこととして知っているのである。
そういう営為を示すもう一人の登場人物が、やはり環であろう。彼女は大震災で母を喪った鈴芽を女手一つで育て上げており、その鈴芽への愛情は、本作冒頭で描かれる鈴芽のお弁当を見ると疑うべくもない。しかし、彼女が鈴芽を引き取ったのは20代後半。まだまだ自分の人生を、自分の好きなように生きたい年頃に突然子育てを引き受けたわけで、彼女の払った犠牲は決して小さいものではない。
その犠牲があるこそ、鈴芽の旅路に対する彼女の心配は強いものになるし、その愛情を鈴芽が否定したときの落胆も大きくなる。ゆえに本作終盤で、環は心の底に抱えていた思いを鈴芽に吐露してしまうわけだが、この時環がサダイジンと共鳴しているような表現がなされたのは、環も、要石も、その自己犠牲の中で互いに似た鬱屈とした思いを抱えていたことを、わかりやすく示すものだろう。
それでも環は、サダイジンは、自己犠牲を受け入れるのである。一度要石の役目からの脱出に成功したサダイジンは、ウダイジンと同じく要石の役目に戻っていく。環は鈴芽と和解し、これからも鈴芽の保護者として生活していく。なぜか?そういうものとして、この世界は回っているのだから。過去の人間の自己犠牲のもとに、新たな世代は育っていくものであるのだから。
こうしてこの作品は、日本という「くに」の背後に脈々と続いている、過去の時間を描くのだ。この日本という「くに」は、ただ平面として横たわり、今黄昏の時を迎えているわけではない。その裏側を覗いてみると、最初平面に見えたものが実は立体であったかのように、分厚い過去が連綿と続いている。そういう立体的な仕方で、この『すずめの戸締まり』は日本という「くに」を描いているのだ。
あるいは言い換えるならば、この『すずめの戸締まりは』、現代を生きる私たちに向かってこう問いかけてくる。この地に生まれた時点で、あなたたちはこうした過去の物語を、否応なく背負わされているのだと。
4.日本という「くに」の葬送
ここまで議論が進むと、冒頭で述べた新海作品の「転向」の根拠は自然と明らかになるだろう。本作はこれまでの『君の名は。』『天気の子』と同様に「災害」を題材にしつつも、新たな「日本という『くに』」という視座を置いた。そしてその視点に過去という奥行きを持たせるとき、「自己犠牲」という要素が浮かび上がる。その結果、本作は『天気の子』と同じく災害を題材にしつつも、陽菜の自己犠牲を批判した『天気の子』とは正反対の帰結へと至らざるを得なくなった。それが、先に述べた「転向」の内実なのではないだろうか。
とはいえ、この「自己犠牲」というものはなかなか流行らないのがこのご時世である。かつての会社のために身を粉にして働くような働き方は「社畜」とされ、自分の生活を大事にした働き方が要請される。かつての子どもをつくり後世を育てることを当たり前とする考え方は古臭いものとして排斥され、家族をつくるか、子どもをつくるかは個人の選択に委ねられる。かつての地元のコミュニティへの参加は息苦しいものとして敬遠され、隣人とのつながりは希薄になっていく。自己犠牲を否定し、「自分」を大事にすることを至上とすることが現代日本の潮流であり、私もこれらの方向性を否定しようとは思わない。
そして、この作品も決して、そういう新しい潮流を否定してはいない。本作で鈴芽は、要石の喪失というリスクをこの世界に負わせてまで、恋人を救おうとするのだから。その代わりにこの作品が行うのは、あくまで「事実の提示」である。あなたがあなた個人のために、あなたの好きなように生きるのはよい。しかしあなたが、鈴芽が生きるこの地は、日本なる「くに」という、一つの特別な風土、文化、あるいはコミュニティを成している。そしてそのコミュニティは、あなたの、鈴芽の先人による自己犠牲の重なりの上に成り立っている。あなたは、鈴芽はこの地で生まれ落ちた時点で、当然にこの「くに」という共同体に、この過去の物語に、何かを負ってしまっている。そういう「重い」事実を、この作品は現代の私たちにただ投げかけるのだ。そして、こう問うのだ。「それで、あなたたちはこれからどうしますか?」と。
繰り返すが、『すずめの戸締まり』のこの営為はあくまで「現状の提示」であり、その現状の継続を強要するものではない。だから、この「重い」事実を受け、作中で鈴芽が環にしたように、その「重さ」を拒否しても構わないだろう。そういう自己犠牲は間違っているとして、自己犠牲をすることなく社会を存続させる方法を追求するのも一つの選択肢であろう。『すずめの戸締まり』は、そのような新しい未来に開かれている。
しかし、私たちがこれからどのような新しい未来を目指そうと、おそらく一つだけ、その前にしなければならないことがあるのだ。それは、私たちが依拠している過去の「くに」の在り様と決別するにあたって、私たちの存在をもたらしてくれたその在り様の価値は何だったのかと、問い直すことではないだろうか。私たちの存在が、初めから否応なくその過去の「くに」の在り様に依拠してしまっているのならば、その在り様を否定することは、私たちの存在そのものを、きっと否定することになるのだから。また、私たちの未来をよりよいものにするには、まずは私たちが何者であるのかを、きっときちんと理解しなければならないのだから。
だから私たちは問わなければならないのだ。会社のために身を粉にして働くような働き方は、健康やプライベートのためにも排するべきだ。しかし、かつての労働者をそれほどまでに突き動かしたものは、何だったのか。家族をつくること、子どもをつくることは強制されるべきではない。しかし、家族をつくること、子どもをつくることは、その人にとってどのような意味をもたらしていたのか。地元のコミュニティへの参加はもはや強要されるべきではない。しかし、地元のつながりはかつて私たちに、何をもたらしてくれていたのか。そうやって過去の私たちの在り方を辿ると、そこから掬いだすべき文化が、風土はないのか。そういうことを考えた上で、その過去と決別する必要あるのではないか。私たちは新たな未来に踏み出すとき、この日本という「くに」の在り様を「忘却」するのではなく、きちんと「葬送」するべきなのではないか。まさに鈴芽が、かつての「くに」の地を、その地に住んでいた者たちの思いを受け止めながら戸締まりしていったように。
それこそが、日本に限らず、歴史を持つ特定の地に生まれ、その地で生き、その地で未来を作るということなのだろう。そうしてこそ、きっと私たちは本当に「私たち」をかたちづくっていくことができるのだ
そうでなければ、私たちは加速していくこの時の中で、失うべきではなかったことも失ってしまうのではないか。現に本作では、愛媛や神戸の下町では誰かが鈴芽に手を差し伸べてくれた一方で、大都会の東京では、ボロボロの服を着た鈴芽に手を伸ばす者は誰一人いなかった。今まさに、「忘却」は進んでいるのだ。
そしてその忘却が進んだ時。もし「閉じ師」と「要石」というシステムが現実のもので、それが万一公に知られることになったら、私たちはこの「くに」を維持するための彼ら彼女らの自己犠牲を、本作を鑑賞した時のように哀れむことができるのだろうか。それとも、彼ら彼女らの仕事を他人事としてとらえ、地震を抑えられなかった彼ら彼女ら一方的に叩くことになるのか。そういう分水嶺に、私たちはいるのだと思う。
そうした分水嶺の中で、『すずめの戸締まり』は、ともするとW杯やオリンピックでしか明確に意識されなくなったこの日本という「くに」を、鈴芽の旅路によって、地震という災害によって、そして閉じ師と要石の歴史によって、ヴィヴィッドに可視化する。私たちが少なくともこれまでは否応なく帰属してきた「くに」というものの存在を、確かな手触りをもって、もう一度思い出させるのだ。
その時、私たちは過去より連綿と続いてきた自己犠牲と連帯の歴史を受け止めた上で、新しい未来を模索するのか。それとも、それを忘却して安易に「軽い」自分を追い求めるのか。その分かれ道を思う時、私の頭の中にはあの鈴芽の叫びが響く。
死ぬのは怖くない。でも、あの人がいない世界がもっと怖い、という叫びが。
(終わり)