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【現代③】『戦争は女の顔をしていない』~「世界史」が掬ってこなかったもの~

※ 本記事は記事シリーズ「あのマンガ、世界史でいうとどのへん?」の記事です。
※ サムネは『戦争は女の顔をしていない』1巻表紙より

 世界が「英・仏・露」側と「ドイツ・オーストリア」側に分かれて争った第一次世界大戦は、数千万人の犠牲の果てに、1918年に前者の勝利で終結します。この大戦の影響は凄まじく、これまで私たちが見てきた世界の在り様は、大戦前後で大きく変わることとなりました。

 まず一つは、「ソビエト連邦」の誕生です。大戦長期化による国民の負担への不満が爆発したロシアでは1917年に革命が勃発し、帝政が崩壊。その後内戦を経て最終的に政権を担ったのが、レーニンという男が率いる社会主義勢力でした。社会主義とは、特定の個人による富の所有を許さず、平等のためにこれを国が管理して分配しようとする思想。『エマ』のページで少し紹介しましたとおり、資本主義経済の中で酷使される労働者層の救済を目指して生まれたこの思想は、徐々にその裾野を広げ組織化が進んでいました。そしてついに、社会主義を実践する大国がここに誕生するのです。

 次に、アメリカの覇権国家化です。広大な植民地から徴収するリソースで大戦を乗り切った英・仏も大戦のダメージは凄まじく、両国の経済は停滞します。一方で、世界大戦に終盤から参加し余力を残した米国の力が突出。自動車や家電、建築等を中心に工業の飛躍的な発展が進み、映画・ラジオといった大衆文化の発信地としても目立つようになりました。

 一方で徹底されたのが、敗戦国側の弱体化。大国オーストリアはチェコスロヴァキアやハンガリー等の複数の国家へと解体。ドイツは海外植民地を全て失ったほか、多額の賠償金を課されたことで経済が大混乱に陥ります。しかし米国の資金協力によってドイツは何とか息を吹き返し、民主化を進めつつ、周辺国との関係を徐々に改善していきました。
 
 この大戦への反省ともとれる良い流れが一変したのが、1929年に始まる世界大恐慌です。工業生産と投資の過剰をきっかけとして米国の景気が一気に暗転し、これにより世界経済が大混乱に陥ります。こうなると、各国は自分の経済を立て直すのに精いっぱいになるので、上記の資金協力のような国際協調は望めません。そして、こういう時に自分を自分で立て直せないのが、植民地のようなリソースを多くは持たない国。大国ですと、具体的にはイタリア、日本、そしてドイツであり、こうした国はより深刻な経済危機に直面することになります。植民地を多く持てなかった一つの原因は、これらの国の国家統一や近代化が遅かったことであり、こうした各国の歴史が、ここにきて大きなハンデとして重くのしかかったのです。

 こうして社会不安が増した国では何が起こるか。国民が、こうした危機を打開してくれそうな強大な権力を求めるのです。
 イタリアでは第一次世界大戦終了後、戦勝国であるにもかかわらず領土拡大ができなかった国民の不満を背景に、ムッソリーニという独裁者が君臨しつつありました。日本でも軍部が政治に進出。そしてドイツでは、賠償金を取るだけ取って誰も助けてくれないこの国際社会への不満を吸い上げるように、賠償金の根拠である国際条約の破棄と、ドイツ人至上主義を訴えるヒトラーが台頭。3国はそれぞれ、自国の利益のために対外侵略を含む軍事活動を加速させるのです。
 こうした3国の動きに対し、米・英・仏といった周辺主要国は、当初は戦争回避のための融和策(一部侵略行為の追認等)で対応。しかし、ドイツ・ソ連が口裏を合わせてその間に挟まれたポーランドの侵略を始めると、妥協の限界を超えた英・仏がドイツに宣戦布告。これをもって、第二次世界大戦が勃発します。1939年9月の出来事です。
 
 ナチスドイツの勢いは凄まじく、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーを次々と侵略、1940年6月にはついにフランスまでもが降伏する非常事態に至ります。一方、海を挟んだイギリスがドイツ軍空襲に耐え続けると、ドイツは東方面に転戦。1941年にかけて東欧広域を支配するに至り、ヨーロッパはイギリス、スウェーデン、フィンランド、スイス、スペイン、ポルトガル以外のほぼ全域が、ドイツの味方あるいは支配領域に下ります
 転換点は、1941年6月に始まったドイツによるソ連侵攻です。もともとこの二国はポーランド侵攻前に不可侵条約を結んでいたのですが、これを一方的に破棄する形でドイツが侵攻を開始。不意打ちを食らったソ連は、一時期首都モスクワが最前線になるほどの苦戦を強いられますが、厳しい寒さと地の利を活かして徐々に反転。また、徐々に米英による反撃も本格化。42年以降ドイツの支配領域は狭まり、イタリアは43年9月、ドイツは45年5月に遂に降伏します。一方極東で中国・東南アジアへの侵攻を進めていた日本も、やがて同じように米国による反撃に押し戻され、連日の本土空襲、そして2発の原子爆弾を受けて降伏。1945年9月2日に降伏文書に調印し、ここに二度目の大戦は終結を迎えるのです。
 
 第二次世界大戦は、まさに私たちの良く知る「凄惨な戦争」の像が顕現した戦争と言えるでしょう。多数の国民が動員され、また軍用機の発達により町への空爆が可能になったことで、戦争ではいわゆる「前線」と「銃後」の区別がなくなり、一般市民の犠牲が格段に上がりました(空襲、レジスタンス戦、飢餓など、軍隊同士の正規の戦闘以外による犠牲者だけで2000万人~3000万人)。また、ヒトラーによるユダヤ人殺戮等、人種主義を背景とした一般市民に対する大量虐殺が発生。そして大戦の最後に投下されたのは、数十万人の一般市民の命を一瞬で奪い取った2発の原子爆弾。核兵器の誕生により戦争は人類絶滅すら実現しうるものとなり、「反戦」「世界平和」という言葉が、本当に差し迫ったものとして、世界各地で叫ばれるようになっていくのです。
 
 ・・・というのが第二次世界大戦に至る経緯、そしてその戦争の経過を概観したものです。上記のような内容だけでも、第二次世界大戦という事件の内容を一応は理解できますし、犠牲者の数や空襲・大量虐殺といった言葉から、その凄惨さも十分に伝わることでしょう。
 ただ、こうした数字や事件の概要はあくまで、この大戦に参加した個々の人々の人生を合算して出力されたものです。それは事件の性質を端的に説明するにあたっては便利ですが、例えば戦争の犠牲者数が下何桁かを元々いなかったかの如く切り捨てた数字で示されることがあるように、その合算の過程で見えなくなってしまった出来事や、人生が確かにある。しかし、その切り捨てられた「端数」を細かに追ってみると、そこには本来見えなくなるべきではなかった大事な何かが、あるのではないか。個々の人生を改めて追ってみると、これまで見えてこなかった「戦争」の一側面が、新たに見えてくるのはないか。

 その「再発見」の作業を丹念なインタビューの集積によって実現したのが、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著『戦争は女の顔をしていない』です。そして今、これを小梅けいと先生が翻案したコミカライズが第4巻まで刊行されています。原書が扱うのは、第二次大戦の中でも特に凄惨だったと言われるドイツとソ連の戦い。それも、この戦いにソ連軍として参加していた「女性」のみをインタビューし、そのエピソードを紹介するものです。ソ連では、女性も最前線で戦っていたのです。
 
 そこで描かれる女性たちのエピソードは様々です。アトランダムであると言ってもいいでしょう。戦地に赴き、その狂気の痕が心から消えない人。過酷な環境の中でささやかな幸せを見出した人。夫婦で出征し、戦地で夫を失った人。戦地での活躍を人生の栄光であると振り返る人。そこには、犠牲者数という数字、あるいは空襲、虐殺といった言葉からは必ずしも演繹できない、多様な出来事が、感情が積み重なっているのです。インタビューを重ねてきた原作者はこう言います。
 
 「何か理解できるのではと覗き込んでしまったらそれは底なしの淵だったのだ」
 「多少の知識は得たものの疑問の方はもっと多くなったり答えはさらに足りなくなった」
 
 また、いかに女性が多く参加したといえど、ソ連でも戦争は「男が担うもの」として構築されています。だから、使命感に駆られて戦争への参加意思を示した女性はそれだけで白い目で見られるし、その異物を見るような視線は、祖国を侵略から護り、英雄兵として帰還した戦後ですら残ります。また、女性を多数動員したにもかかわらず兵士用の装備は女性の存在を想定しておらず、女性用の下着も、生理用品も支給されません。女性たちは確かにそこに「いた」のに、しかしシステムとしては、全体としては「いない」ことにされている。戦争は「女の顔をしていない」のです。ある元女性兵士は言います。戦争において一番怖いことは死ぬことではなく、「男物のパンツをはいていること」であったと。
 
 こうしたエピソードを見ると、「世界史」というものを振り返るとき、私たちはあまりにも多くの事柄を捨象しているという事実を認識させられます。こういう事件があった。こういう戦争があった。こういう文化が生まれた。「世界史」はそういう「大きな」出来事を俯瞰的な視点で振り返るものであり、これには確かに意義があるわけですが、そもそもここでいう「大きな」とはどういうことなのか。そこにはただ一つの正しい基準があるわけではなくて、その大小は一つの価値判断でしかないのです。
 だから、私たちは過去を振り返るとき、本来重要である事柄を一つの相対的な価値観から「無視」した上で、世界を眺めているのかもしれない。実際、どう語るべきかなど固まっているように見える「戦争」すら、私たちは女性をはじめとする様々な人たちのエピソードを捨象した上で語っている。そういう相対性を、私たちは意識しなければならないのだと思います。

次回:【現代④】『月と金のシャングリラ』~「中華」の復権とその影~ 


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