【近代・後②】『エマ』~産業革命がもたらした新たな英国社会と、「身分差」の意味~
※ 本記事は記事シリーズ「あのマンガ、世界史でいうとどのへん?」の記事です。
※ サムネは『エマ』1巻表紙より
英仏における市民革命と、前記事の『片喰と黄金』で見た超大国アメリカ合衆国の誕生。
これまで見てきた歴史上の世界は、例えば「王様」がいたり、農業が主な産業だったりとまさに「昔の世界」であったわけですが、この2つの大事件をもって、世界は急激に私たちのよく知るすがたへと変貌を遂げていくこととなります。近代後半戦の始まりです。
世界史という学問では、この時代の出来事を指すものとして「二重革命」という言葉が使われたりします。この時期に世界(特に欧米)は二つの重大な革命を経験しており、これにより大きく社会が変化したという意味です。その二つの革命とは何を指すのかというと、一つは既にとりあげた、共和国米国の誕生も含めた広義の「市民革命」です。ではもう一つは何かいいますと、これが皆さんご存知「産業革命」です。
「産業革命」とは、小難しくいうならば「人力にかわって機械の動力を使う工場生産の確立」を指します。これまでは繊維や鉄、機械を製造するにもその資源は基本的に人力であり、工業は個々の職人によって担われていました。しかし蒸気機関が発明され、これを動力に各種製品を大量に生産できる機械が開発されると、19世紀前半には大量の人員・機械を投入して製品の大量生産を図るスタイルが確立していきます。まさに私たちがよく知る、「工場」の誕生です。
これが最も早く進んだのがイギリスです。『第3のギデオン』のページで見たとおりいち早く市民革命を終えたイギリスでは、農業生産の効率化のために農地の集約が進み、この過程で土地を失った農民たちが余剰労働力としてあぶれていたこと、またエリザベス時代以降の海外進出で広大な海外市場を得ていたことから、産業の大発展の素地が整っていました。実際、イギリスでは新たな工業都市が多数登場し、ここで生産した各種製品を大量に世界各地に輸出。「世界の工場」として荒稼ぎし、覇権国家としての地位を揺るぎないものにするのです。また、こうした変化は国内では工場主や貿易商といった新たな有力者(ブルジョア)を出現させ、彼らは旧来の貴族や地主に並んで、社会の新たな支配層として台頭します。
しかし、こうした社会構造の変化は新たな問題を生むことにもなりました。特に、工業都市に流入した労働者たちは資本家たちに良いように使われ、生活環境・労働環境は劣悪そのもの。イギリスではこうした状況への抗議運動も早期に始まり、19世紀前半には子どもの労働時間を制限する法律が制定されるなど、現代の労働基準法などにつながる「労働者の保護」という発想が生まれます。それでも、厳然たる階級社会の中では、この保護は必ずしも十分には進みませんでした。
そこで、この労働者保護の発想がさらにラディカルな形を取ることで生まれたのが、「社会主義」という新たな思想です。特に、労働者の救済は労働者階級と資本家階級の闘争、そして資本家階級の打倒をもって初めて実現するとするその思想は徐々に多くの支持を得ることになります。そしてこの思想は、やがて遠く離れたロシア、そして中国において政治的に結実し、20世紀半ばには世界を真っ二つに割る震源になっていくのです。
そんな激動の19世紀イギリス社会を舞台にしたラブロマンス作品が、森薫先生作『エマ』です。
本作の主題は、貿易業でのし上がり上流階級に新たに仲間入りしているジョーンズ家の長男ウィリアムと、彼の元家庭教師にメイドとして仕えている女性、エマの身分差の恋。そのロマンスが、多数のメイドもの作品を描いてきた森薫先生のこだわり溢れる書き込み、そしてその筆致が織りなすイギリス文化の優美さに彩られ描かれていきます。
身分差の恋と言えば、やはりその身分差を良しとしない親や社会がその恋の障害となる展開がつきもの。本作もご多分に漏れずそういったストーリーラインなのですが、本作のよいところは、こうした障害を例えば駆け落ちによって飛び越えたり、あるいは一方的に断罪するのではなくて、この障害と真正面から向き合って、その上でそれを克服しようとするところだと思います。なぜなら、ウィリアムが本当の意味でエマという一人の女性と向き会うのであれば、自分とエマの環境の違い、そしてこれが生む価値観や文化の違いとも、きっとしっかりと向き合う必要があるのですから。身分差によって二つの世界に分裂しているともいえるこのイギリス社会で、エマはどのような人生を送ってきたのか。一方ウィリアムはこれまでいかに恵まれた環境で育ち、その結果彼は何を持っていて、そして何を持っていないのか。本作はラブロマンスでもありますが、こうした「身分差」の内実についてウィリアムが自分を見つめ直して、自らが担うべき社会のしがらみを徐々に引き受けていきつつ、しかしエマを諦めない、そんな彼の成長物語にもなっているのです。
そして、まさに激動の最中と言えるこのイギリス社会では、二人の障害として立ちはだかるこの階級や身分差もまた変わりゆくものであるはずで、きっとそこに希望がある。現実を見て、しかし希望を捨てない姿勢に心動かされる作品です。
次回:【近代・後③】『河畔の街のセリーヌ』~革命後のフランスの混迷と成熟~