【レビュー】『チ。』と宗教 ~私たちは何をよすがに生きていくべきか?~
毎年年頭に発表され、その手堅いランキングに読者の注目度も高い「マンガ大賞」。マンガ大賞2021では、ある異色の作品が2位にランクインしました。
その名も『チ。-地球の運動について-』。中世末期のヨーロッパで、宗教権力の弾圧に抗いながら、地動説を唱える者たちの物語です。
地動説、宗教権力・・・というと、ガリレオ=ガリレイの話を思い出す方も多いのではないでしょうか。キリスト教では、神のいる地球が宇宙の中心であり、太陽などが地球のまわりを回っている(天動説)と考えられていた。しかしガリレオはそれに反する地動説、すなわち地球が太陽のまわりを回っているのだと言ってしまい、キリスト教に異端とされてしまった。まだ強力な権威を持っていた頃の宗教と、黎明期の科学との交錯を示す、有名な逸話です。
そんなある種とっつきにくいテーマを扱っている中で、本作の勢いは留まるところを知りません。上記のマンガ大賞2位というのは、『SPY FAMILY』(2020年2位)、『ミステリと言う勿れ』(2019年2位)に並ぶ快挙です。そして4巻発売時点で発行部数は70万部を突破。一体本作の何が、多くの人々の心を惹きつけてやまないのでしょうか。
1. 表の魅力 ~「自分を信じて社会に抗う」ドラマ~
本作の魅力としてまず挙げられるのは、魚豊先生独特の筆致で情熱的に、そして濃密に描かれていく、個人による社会への反抗のドラマです。
本作の舞台では、C教(明らかにキリスト教を指す)が社会一般に広まっています。そして、C教では神が中心とされるので、神のいる地球を中心に置く天動説が肯定され、地動説は異端とされているのです。(なお、どうやら史実ではキリスト教はそこまで地動説を迫害していなかったようで、ゆえに本作は「キリスト教」と明言していないのでしょう。上記のガリレオの逸話も、正確なものではないそうです。)
しかしその中で、主人公のラファウはある異端者と出会い、地動説を知ります。当初は「地球が動いている」という主張の荒唐無稽さに戸惑いますが、それを知れば知るほど、天動説と比較して、あまりにも天体の動きが理路整然と計算されてしまう。それが、「美しい」と感じてしまう。彼は頭がよく世渡りもうまく、C教の創った価値観・社会の中で出世コースを歩んでいました。彼はそのまま人生を歩んでいれば、いわゆる成功を手にしていたことでしょう。しかし、そんな「理屈」よりも、自らの直感、あるいは感動を信じて、やがて地動説の追求という修羅の道へと歩みを進めるのです。
『チ。』第2話
はたまた、オクジーという登場人物は、空を見上げることをひどく嫌います。C教によると、星空がきれいに見えるのは、罪深き人間が住むこの汚れた地上からそれを見上げているからである。だから星空を見るたび、彼はこの地が汚れていること、死によってこの地から離れ、天国へ行くこと以外に救済の途は無いことが思い出されてしまうのです。しかし彼は地動説と出会うことで、この地は天から見放されたものではなく、むしろ天の美しき秩序の一部である可能性を知ります。そして、この地(チ)が美しいものであることを信じて、地動説を追い求めるようになるのです。
そこで描かれている「自分を信じて世界に反抗すること」がいかに難しいものであるかを、現代の私たちはよく知っています。例えば長時間労働や理不尽な上下関係を強いる職場に、私たちは不平不満を言うことがあっても、それを一人で変えることはなかなか難しい。私生活に目を向けたら向けたで、「大人ならこんな趣味はふさわしくない」、「異性と結婚して身を立てろ」といった声が上からたくさん聞こえてきて、自分の好きなように生きることを阻害してくる。自分を貫くというのは、障害の多いことなのです。
あるいは、そこからそんな社会を変えよう!と決意し、何とか行動に移すことができても、時に出る杭は打たれてしまうものです。声を大にして何かに異議申し立てをしようとすると、みんな応援しているのか反対しているのかよくわからない顔で、なんだか距離を取ってくる。これが政治や社会問題といった「マジメ」な話になると、なお一層その傾向は強くなります。政治について発言をした芸能人が微妙な反応をされたり、あるいは政治関連のハッシュタグをたくさんSNSで使うことを怖がられたり、あるいは怖がったり、なんて感覚は誰もが思い当たる節があるのではないでしょうか。社会への反抗を何とか実行に移せたとしても、次は私たちが作る「空気」が、私たちを阻むのです。
そんな「モノ言えぬ」私たちにとって、自らの信条を貫く胆力、その信条で世界を動かそうとする強さを持つ登場人物たちは、強い共感、爽快さ、あるいは憧れの対象となるのだと思います。ラファウは拷問官の脅威を感じながらも、あるいは天文学をやめるように言ってくる大人たちの圧力を受けつつも、「自分が美しいと思うから」という極めて感覚的な理由だけで、全てを捨てることができる。オクジーも、この世界は美しいものであるという可能性を信じて、社会通念に抗いながら前に進んでいく。その姿は、社会に抗えないでいる、あるいは抗う決意ができても「空気」に忍従してしまう私たちが抱く、現代の「ヒーロー像」なのではないでしょうか。
『チ。』第2話
2.裏の魅力 ~「よすが」としての宗教の選択~
しかし、私はこうも感じます。本作を「自分を信じて社会に抗う」ドラマとして解釈するのは、決して的外れではないものの、本作の魅力を十分に掬いきれてはいないのではないか、と。本作の内側には、そのような前向きなニュアンスばかりではなく、もっと、悲壮感のような、孤独感のような、そういう冷たい何かが、通底していないか。そんな感覚を、本作には抱いてしまうのです。
本作はなぜそのような冷たい感覚を催すのか。一口で言うと、本作は「宗教」をモチーフにしているからである。そう私は思います。
2-1. 「よすが」としての宗教
左:トマス・アクィナス 右:アウグスティヌス
「宗教」、というとあなたはどんなイメージを抱きますでしょうか。
「宗教」という言葉は、現代日本ではなんだか胡散臭いイメージを持つものになってしまいました。変な思想で人を惑わし、その人の人生を狂わせてしまうような・・・そんな「カルト」的な響きを持つ言葉です。しかしながら、宗教が人類発祥以来、文化を問わず、非常に長い時間人類に寄り添ってきたものであることは周知のとおりです。宗教は私たち人類がこの世界を生きていくにあたって、非常に大きな、そして普遍的な役回りを果たしうるものであることは、確かなのだと思います。
では、その役回りとは何なのでしょうか。これは本当に様々な答えがありうる問いであり、「宗教学」という学問もあるほど奥の深い問題ですが、私はその大きな答えの一つが、「理不尽に理由を与えること」であると思うのです。
人類はかつて、現代より遥かに深刻な、そして多くの苦しみに晒されてきました。飢饉、天災、戦争、暴力、貧困、疫病・・・ 今では食糧生産技術の発達や政治制度の安定、医療の発展などで、こうした苦しみの度合いは低減されていますが、昔はより大きなものだったことでしょう。
しかし何より深刻だったのは、この災害の大きさそのものではなく、「この苦難を受ける理由がわからないこと」だったのではないでしょうか。例えば、同じく「人に殴られる」という行為でも、自分が大きな迷惑をかけてしまった人に殴られるのと、突然赤の他人に殴られるのでは、不快の度合いは違います。前者は「痛いけどある意味仕方がない」と納得がいくものですが、一方後者は理不尽そのものです。痛いだけでなく、なんで殴れなければならないのかという不快、殴ってきた者に対する怒りが長く尾を引きます。苦しみの理由がわからないことは、苦しみ自体の程度を上げるのです。
だからかつての飢饉、天災、戦争などの苦しみは、私たちが今想像するよりも、もっと壮絶なものだったと思うのです。かつては地学も、医学も、政治システムも、何もかも発達していません。だから人々は、なぜ自分がこんな苦しみに遭っているのか、遭わなければならないのか、全くわからない。ただただ理不尽な苦難を、どこにもぶつけようのない怒りや悲しみを、強いられ続けてしまうのです。
ではその「苦しみの理由がわからないという苦しみ」を、いかに和らげるべきか? その手段となったのが、他でもなく宗教だったのではないでしょうか。この役割を果たした宗教としてわかりやすいのは、理不尽な民族迫害の中で、今の苦しみが救世主による民族救済への道であると説いたユダヤ教です。また、本作が明らかにモチーフとしているキリスト教も、人々の苦しみの理由を説きます。有名な原罪思想です。
かつて神は自らの似姿としてアダムとイブをお造りになられた。しかし彼らは知恵の実を食べ、罪を負ってしまった。そしてその罪はアダムとイブの子孫である今の人類にも引き継がれており、ゆえに人類は罰を受けているのです。しかし、人は神の似姿であるがゆえに、本質的に、善(=神)なる存在に回帰することができる性質を持っている。そしてその善への回帰を実現する手段は、信仰(アウグスティヌス、ルター)であり、あるいは知性(トマス・アクィナス)である。キリスト教はそう説くのです。
ここには、人々が苦難に遭う理由も、そこからの救済の方法も綿密に用意されています。人間はアダムとイブの子孫であり、アダムとイブが罪を犯したから、その罰として苦難に遭っている。しかし、人間は祈りや知性(理性)によって最後は救済されうる。この「ストーリー」によって、人々はただ理不尽に抑圧される存在ではなくなります。苦難の理由を認識し、かつ、祈りや理性で救済を目指すという、生きる理由を見つけることができるのです。この意味で宗教とは、苦難に起きる人々の生を主人公にした「物語」であり、人々が生きるための大きな「よすが」であるのだと思います。
2-2. 私たちは「物語」から逃れられない
『チ。』第28話
しかしながら、やがてこの「物語」に疑問を呈する人が出てきます。それがラファウであり、あるいはオクジーです。C教は「この地上は本当に汚れている」というが、本当はこの世界は美しいのではないか?人間の善性は、人間が神の似姿であるがゆえに存在し、ゆえに信仰をもって善を実現できるというが、神と関係しないところにも、善というものはあるのではないか?この世界そのものに、善や美は、確かにあるのではないか?そう信じて、教えに反抗する、あるいは教義をアップデートしようとする勢力が現れるのです。(史実では、神の救済ではなく人の意志と経験こそ善を実現する、と説いたオッカム(1285-1347)が代表的です。3巻でヨレンタさんが支持していると言っていた人ですね。)
この行為は上記のとおり、現代の文脈で言えば「自分を信じて社会に抗う」行為です。現世の美しさや自らの考えを大事にして、社会に抗っていく。そして、社会を、「地」(チ)を動かしていく。その気概が私たちにとって称賛されるものであることは、既に述べたとおりです。
しかし、ここまで見てきた「宗教」という文脈から改めて考えると、ラファウたちの行為はまた別の意味を帯びるようになります。というのは、彼らは単に自分を信じて社会に反抗しただけではなくて、彼らの生を包むC教の「物語」を否定したのです。ラファウは、「神に回帰することで幸せになれる」という筋書きを否定した。オクジーは「この世界は汚れており、そこから死をもって脱することで幸せになれる」という筋書きを否定した。彼らは社会を、あるいは自らの生を覆う「物語」を否定したのです。
これがいかに恐ろしいことであるかは、もうお分かりのとおりでしょう。彼らは、彼らを苦難から守っていた物語の保護から、外れてしまうのです。もはや彼らの苦しみを説明してくれるものはありません。彼らは再び、宗教の前の段階、すなわち「なぜ自分たちは苦難を強いられるのか」、「なぜ自分たちは生きなければならないのか」が分からない、理不尽の地獄に連れ戻されてしまうのです。
すると、彼らは「なぜ自分たちは苦難を強いられるのか」、「なぜ自分たちは生きなければならないのか」に対して、自力で答えを見出さなければならないことになります。誰も答えを与えてくれず、誰の承認に頼ることもなく、自分の人生に、苦難に、自分が価値を見出せる「物語」を見出さなくてはならなくなるのです。これが、本作に通底する悲壮感、孤独感の正体なのではないでしょうか。
そして私たちは、この悲壮感、孤独感を知っています。なぜなら私たちは、社会に抵抗することで、これまで社会が私たちの人生に与えてくれていた「物語」を、捨てようとしているからです。
私たちは不満を抱いている社会。その社会とは具体的に何を指すのかというと、それは「確立された物語」の集積なのではないでしょうか。「長時間労働することが立派な職業人である」という物語。「結婚してこそ一人前である」という物語。それらは、かつてキリスト教が、苦難の生に「原罪への罰と救済への途」という意味を与え、生きる意味を示してくれたように、ともするとただ辛いだけの人生に、「立派なサラリーマンになった」という意味、あるいは「成長して家族を持つ一人前の大人になった」という意味を与えてくれるのです。私たちの生は、その物語を辿ることで、「正解」として認められるのです。
この意味で社会とは、広義の「宗教」であるとも言えます。宗教はカルトじみた胡散臭いだけのものではない。むしろ、私たちの生に寄り添っているのです。
しかし、私たちはその物語に、時に疑問を持ってしまう。家族を持つことなく、趣味に没頭した生は、無価値なのか? 労働に身を捧げなかった生は、無価値なのか? 自らが生きる生にどのような意味を与えるか、人生がどのような物語であることを善とするかは、自分で決めてもいいのではないか? 何を「正解」とするかは、どのような「物語」を紡ぐかは、私たちそれぞれが決めるべきことなのではないか? そう、私たちは考えてしまうのです。
しかし、それは修羅の道です。特にネットで様々な生き方や価値が嫌でも目に入ってしまうこの時代、どのような生き方を選ぼうと、その生き方が自分にとって正解だったと確信することは容易なことではありません。自分より華やかな世界で生きている人を見たら、自分の人生は惨めであると感じてしまうかもしれない。自分よりお金を稼いでいる人を見たら、自分の人生は失敗であると感じてしまうかもしれない。自分より「いいね!」を集めている人を見たら、自分の人生は寂しいものだと感じてしまうかもしれない。
しかしそれでは、あなたはあなたの人生に「意味」を与えられていないのです。自分の好きなように生きる、社会に反抗するということは、社会の与える「正解」、他人の考える価値から独立して、自分はこう生きていくんだという道を、拓くことなのです。こう生きれば自分の人生は価値あるものなのだという「物語」を、掴み取ることなのです。「宗教」を、自給することなのです。それが、社会に抗う現代人と言う存在の、完成形なのだと思います。
そして、そんな「自分の物語」を強固に選び取る物語が、この『チ。』なのではないでしょうか。原罪のせいで自分はこの世界で苦しんでいるのであり、祈りによって自分は救済される。これは苦しい生に意味を与えてくれる、甘美な物語です。しかしラファウやオクジーは、その物語を捨てるのです。ラファウは、自分の直感・感動を信じて生きることが善であるとの確信についに至った。オクジーは、「この世界は天国よりも美しいものなのだ」という物語についに至った。本作は、宗教という古典的なモチーフを使うことで、現代人の本当の課題を、私たちが心の底で目指している私たちの完成形を、力強く描いているのです。
だからこそこの作品は、私たちの心を掴んで離さないのではないでしょうか。
(おわり)
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