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【エピローグ】『Pumpkin Scissors』~歴史は終わらない、正義は見えない~

※ 本記事は記事シリーズ「あのマンガ、世界史でいうとどのへん?」の記事です(本記事をもって完結)。
※ サムネは『Pumpkin Scissors』21巻表紙より


1.本記事シリーズのエピローグ

 様々な歴史マンガを時代順に紹介する『あのマンガ、世界史でいうとどのへん?』。先史からスタートし、33作品のマンガとともに人類の歴史を追ってきたこの長い旅も、遂に終着点を迎えつつあります。

  本記事シリーズをお読みいただいた方がいたとしたら、このシリーズを通してどのようなことを感じましたか?

 本記事シリーズの最初の記事でも書いたとおり、このシリーズの大きな目標の一つが、「歴史ものマンガの魅力を伝えること」でした。マンガの大多数はフィクション作品であり、フィクション作品だからこそ、世界観を自由に構築することができる。その強みは、マンガというコンテンツの豊かさを大いに支えていることしょう。しかし一方で、歴史ものには歴史ものの良さがありまして、それは「この作品で描かれる世界は確かにかつてこの世界に存在していた」というその存在感、言い換えるならば「その物語が私たちに差し迫ってくる感覚」の強さです。

 そしてその感覚は、その過去の世界というのが具体的にどういう時代背景の、どういう地域であるのかを一度知ると、より強くなっていくのだと思います。なぜなら、そういうことを知ると、私たちはより「想像」することができるようになるのですから。この登場人物は、どういうことを考えて生きてきたのだろう。このエピソードは、どういう事情が原因で発生したのだろう。そういうことをより細かい解像度をもって想像できると、より深くその作品に入り込めるようになる。その作品についていろいろ考えたり、感じたりできるようになる。そういう「歴史もの」のスルメのような魅力を味わってほしいとの思いから、歴史自体の内容と、歴史マンガの内容を同時並行で追っていくコンテンツを作ってみたのです。

 もしこの記事シリーズに触れて、歴史マンガって意外と面白いのではと、そう思ってくださる方が少しでもいらっしゃるなら誠に幸いです。

 
 また、上記の最初の記事ではもう一つ別の目標を掲げていました。それは「世界史そのものの魅力を伝えること」です。

 本屋にふらっと入ると、人文コーナーの棚に「社会人になってから学ぶかんたん世界史」といったフレーズの本がしばしば平置きされていることに気づきます。この国の教育カリキュラムでは世界史は選択科目であり、学生時代に「世界史は学ばない」という選択をした方も数多くいらっしゃると思いますが、それでも、そういう書籍が平置きされる程度にはメジャーなジャンルとして販売されている。これは、「がっつり勉強とはいかずとも、なんとなく世界史を知ってみたい」という方が一定数いらっしゃることの証なのかなと思います。

 では、なぜ「世界史を知ってみたい」のか。それは、先ほどの「歴史ものマンガの魅力」に通じる話なのですが、私たちは「この世界の在り様を知りたい」からではないでしょうか。特に近年、グローバリズムが進み切ったはずの世界はEU分裂や米中覇権争いといった逆行を見せつつあり、さらにはロシア-ウクライナ戦争という、近年見られなかった大国の絡む国家間戦争が遂に勃発しています。なぜ、中国は(そして米国も)あんなに喧嘩腰なのでしょうか。なぜ、ロシアは今更侵略戦争という蛮行を犯したのでしょうか。

 その答えを知るには、結局過去を参照するしかありません。「中華」であったころの中国。冷戦構造下で生まれた「NATO」という資本主義側の軍事機構が今なお残り、これに迫られているロシア。そういう事情を知ったうえで改めてこの世界を眺めてみると、私たちはより「想像」することができるようになる。この国は、なぜこういうことをするのだろう。この戦争は、どういう事情が原因で発生したのだろう。そういうことをより細かい解像度をもって想像できると、より深くこの世界の在り様を、私たちの現在地を理解できるようになる。より一層いろいろ考えたり、私たちの未来に関して思いを巡らせることができるようになるのです。

 世界史を知ることは、歴史ものマンガの世界観に入り込めることにつながるのと同じような意味で、私たちの世界にも、深く入り込めることにつながっていく。それこそが「世界史そのものの魅力」なのだと思いますし、本記事シリーズが皆さんにそのような直観を与えることができたのならば、これまた嬉しい限りです。

2.「世界史」のエピローグ?

2―1.世界史は終わらない

 ・・・とここで本記事シリーズを締めくくるときれいに締まるのですが、もうちょっとだけお付き合いください。最後の最後に付け加えさせていただきたいのは、現代の章の最後でとりあげた『東独にいた』のさらにその後の時代と、その時代に密接に関わっているフィクション作品についてお話です。

  
 『東独にいた』のページでも言及しましたとおり、第二次世界大戦後の世界を半世紀ほどの間規定していた冷戦構造は、1991年のソ連消滅をもって完全に崩壊。これにより米国の軍事的優位が決定的になるとともに、米国が牽引する資本主義経済と自由民主主義的な政治体制が、「正しい」ものとして世界を席巻することになります。

 思えば、ここまで追ってきた世界史の特に後半部は、「世界の一体化の物語」として解釈できるものでした。かつて、大きく分けるとヨーロッパ圏、イスラーム圏、アジア圏で分断されていた世界は、大航海時代の開始以降商業的なつながりを増し、政治的にもお互いへの影響が大きくなっていきました。そして帝国主義時代になると、欧米以外の地域が欧米の植民地として再編される形で、欧米を中心とする世界へと一気に吸収されていく。そして、その欧米間の争いが二度の世界大戦と冷戦をもって行われ、その結果一体化した世界の最終的な勝者として米国が君臨した、という解釈です。

 そういう物語をこの世界史から読み取るならば、冷戦の終結と勝者の決定はまさにこの物語の最終回であり、ここに「世界史」という物語は終わりを迎えたはずです。そして後に残るのは、未だ残存する「ならずもの」であるテロリストを米国らが掃討していく、事後処理のような戦い。実際に、1992年には「歴史の終わり」なる書籍が世界的なヒットとなったほか、ゼロ年代における戦争は主にテロリストとの戦いでした。そういう歴史観が有効だったのです。

 
 しかし、そういう「歴史という物語の最終回」を見出す世界観は、もはや失効しつつあります。2010年代以降、米国に比肩する大国として中国が台頭。覇権争いによる両国間の貿易規制は、一度は一体化したかに見えた世界経済を部分的に再分解させ、彼岸の国家に頼らず、自分の同盟国間だけで必要な物資を賄おうとする「経済安全保障」がバズワードになっています。また政治体制についても、決して自由主義とは言い難い中国が隆盛を見せる一方で、10年代以降欧米では移民排斥が問題になったほか、米国ではトランプ大統領の誕生や議会への暴徒侵入といった自由民主主義の暴走とも形容される事態が発生。「自由民主主義」の正しさを素朴に唱えることは、もはや不可能になりつつあります。かつて「世界が一体化の果てに見つけたゴール」と思われたものは、ここ10年で一気に瓦解していったのです。

 であれば、この世界史という物語は、結局何なのでしょうか。大きな流れとしては、この世界がもう中近世のようなレベルの分断状態には戻れないのは間違いないでしょう。もうどの地域の人もスマホを持ち、民族衣装ではなくユニクロで売られているような洋服を普段使いしている世界です。しかし、一方で世界はもう一度、複数の領域・体制・思想に確かに発散しつつある。私たちは今、どこへ向かっているのでしょうか。いや、明確な目的地など、そもそも想定しえるのでしょうか。

2-2.『Pumpkin Scissors』の悲しき時代性

 そういうことを考えるとき、私は一つの大好きなマンガ作品を思い起こさずにはいられません。その作品とは、岩永亮太郎先生作の『Pumpkin Scissors』。2002年に連載開始し23巻を刊行、しかしその後長期休載に入り、2024年5月に連載を再開した作品です。

 本作が描くのは「大戦争のその後」の物語です。物語の舞台となる「帝国」は隣国と泥沼の戦争状態にありましたが、ついに薄氷の停戦条約を締結し、終戦を迎えます。しかしその後に残されるのは、戦争で荒廃した国土と、すべてを奪われた市民。そこで、この戦争による災害、すなわち「戦災」からの復興を進めるための部隊として、帝国軍は「陸軍情報部第3課」、通称「パンプキン・シザーズ」を設置します。本作はその実働部隊の長であるアリス少尉、そしてその部下であり、かつての大戦で最前線にいたランデル伍長の活躍を描くお話です。

 本作は「戦災復興」を行う短中編を複数挟んだのちに、本作最長(そして未完)のエピソードである「合同会議編」に入ります。帝国に各国首脳が集う「合同会議」の開催に合わせて、「抗・帝国軍」(アンチ・アレス)を名乗るテロリストグループが帝都で蜂起。各国首脳が人質に取られる窮地となり、パンプキン・シザーズはこの鎮圧にあたるのです。

 しかし、各所で戦災復興にあたっていたアリス少尉は、このテロリストらを一方的に力で抑えつけることに強い違和感を抱いています。確かに戦争は終わった。しかし、この戦争で職や住居を失った市民に自動的にそれらが戻ってくるわけではないし、戦争の過程で帝国の差別や暴力を受けていた人たちは、戦争が終わってもその苦境に未だあえいでいる。そしてそういう人たちが、帝国への怨嗟をエネルギーにしてテロへと走る。であるのならば、そうした人々をただテロリストとして断罪することは、本当に「戦災復興」なのでしょうか?

 だから、この「合同会議編」クライマックスにおいて、アリス少尉は軍紀に背いて突然テロリストの指導者と回線をつなぎ、彼と対話を始めるのです。彼はどういう体験をして、どういうことを考えて、どういう思いからこの行為に及んだのか。しかし、彼の何が間違っているのか。そういうことについて、アリス少尉は指導者と議論を交わしていきます。この対話シーンだけで実に本作第21巻のほぼ全てが費やされるという圧巻の一幕なのですが、この対話を通して語られるのは、一言で言うならば「テロリストは名を名乗らなければならない」ということです。これはどういうことか。

 テロリストはその怒りや怨嗟に身を任せて、帝国の無辜の市民を傷つけ、時にその命を奪います。しかし、彼らが恨むべきは本当に帝国の市民だったのか。彼らを苦しめてきたのは、彼らと会ったこともない善良な市民ではなく、彼らを搾取の対象とする経済体制や、彼らの存在を無視する帝国の社会制度だったのではないか。であれば、彼らの矛先は、その恨むべき体制に、制度に向けてほしい。その怒りや怨嗟を、無駄にしないでほしい。衝動のまま動物的な暴力に身を委ねるのではなくて、あなたという人間が抱いてきた苦しみを練り上げて、本当に否定すべきものに叩きつけてほしい。そういう意味で、「名を名乗ってほしい」。そうアリスは説くのです。

 そして同時に、その練りあがった憎悪は、思想は、帝国の立場と平等に扱われなければならない。そういうことを、帝国軍人であるアリスはその立場にかかわらず同時に宣言します。テロリストを武力で弾圧するのではなく、彼らに形だけの経済的援助を与えるのでもなく、彼ら一人一人が練り上げた思いを、一つの立場として尊重する。そして、その立場の主張と帝国の主張を双方汲み取ることができるような、新たな「正義」を作り上げていく。そうすることで、私たちはより高いところにある「正義」へと辿りつけるのではないか。そしてそれを繰り返していくことで、今は遥か遠くに見える、しかし確かにある終着点としての「絶対的な正義」に、少しずつ近づいていけるのではないか。それはとても困難で、理想論に聞こえるかもしれないけれど、決して「不可能」ではないのではないか。そういうことが、アリス少尉の口から語られていくのです。

  本記事シリーズをを通読した方はピンと来るでしょう。ここで語られている議論は、『チ。』で語られた歴史観に重なります。あるいは、『将国のアルタイル』の問題意識とも重なっていると言ってもいいでしょう。

 『将国のアルタイル』はその最終盤で、「大国の統治において、多様な立場を認めることは適当か」という問題を取り扱いました。もちろん多様な立場があるべしというのは聞こえがいいですが、バラバラな立場を放置することは結局必要な統治力さえ阻害してしまうかもしれない。『将国のアルタイル』はそれを一つのありうべき危機として捉えるのですが、一方で『チ。』は多様な立場のぶつかり合いこそが、世界を高次元へと導くと断じます。私自身が万一間違っていても、自分を正す存在が出現すれば、その上書きを通してこの世界により一層「善」に近いものが実現する。そして、私は人類による「壮大な善へのにじり寄り」に参画できる。それが、『チ。』の歴史観でした。

  『Pumpkin Scissors』は2002年の連載開始なのですが、本作はこの『チ。』的な考え方を、「テロとの戦い」が叫ばれた2000年代の時代性に適用して、この時代の問題の解決を誠実に追求しようとした作品である。そう私は考えています。

 米国は2001.9.11同時多発テロ以降「テロとの戦い」を加速させ、中東世界の「解放」を目指しました。しかし、この戦いは本当に正義だったのか。たしかに無辜の市民を虐殺するテロ自体は何ら許されるものではない。それでも、米国軍の圧倒的軍事力に蹂躙されていく彼らにもまた、何らかの立場が、思想があったのではないか。であれば、それを「米国の自由民主主義」の名の下に一方的に圧殺していくことは、本当に適当な解決だったのか。いずれか一方の正義を押し付けるのではなくて、そこには対話が、そしてそこから生まれるより高い次元の「正義」が、追求されてしかるべきだったのではないか。そういう思索の果てに、本作で描かれるアリスとテロリストとの対話、そして「正義」というものに対する力強い提案は生まれたのではないか。そう私は想像するのです。

 しかし時代は変わりました。私たちはもはや、一つの「正義」という物語を信じられるような時代に生きてはいません。あれほど輝かしく見えた自由民主主義の世界には分断や政治的混乱が溢れ、一方でそうした政治体制を取っていない国(中国など)が、それなりに運営されている。そして、世界は再び米中の争いを軸にして分断されつつある。もはや、今は「虐げられる少数派の意見を掬いながら、いかに一つの正義を磨いていくか」ではなくて、「複数ある思想を、どのように両立させていくか」こそが問題になりつつあるのです。

 また、『Pumpkin Scissors』は、複数の立場を認め、そこから共通の正義を磨いていくためのカギとして、多数の人が意見を交わせるようになるインターネット技術の効用に作中で言及しています。しかし、今まさにそのネット(SNS)こそが民主主義の腐敗の大きな要因の一つとされているのは周知のとおりです。そこにあるのは極端な言説やデマでアクセス数を稼ぐ人が持て囃され、また人々が乱雑に怒りをぶつけあうだけの場であり、個々人が練り上げた正義をぶつかり合わせ、妥結点を探るような議論の場は到底整備されていません。ネットによる言論の乱れの克服は、もはや現代民主主義の課題の一丁目一番地なのです。

 こうした状況の中で、本作は果たしてアリス少尉とテロリストによる対話の続きを、「絶対的な正義」への遥かなる道を描けるのでしょうか。ともすると、もはやそれは非常に困難なことになっているのではないか。

  もちろん、現在の『Pumpkin Scissors』の長期休載と上記の議論とには、実際は何の関係も無いのかもしれません。しかしながら上記のような現状を見ると、『Pumpkin Scissors』は「歴史の終わり」という物語を素朴に信じない誠実さを持っていながらも、本作も想定していなかった規模の「物語の変容」の波に飲みこまれてしまった、歴史の犠牲者とも言える作品なのではないか。そんなことを、考えてしまうのです。

 
 歴史は終わらない。それどころか、誠実に歴史と向き合った作品を飲み込んでしまうほどのうねりをもって、未だ激しく波打っている。それが、本記事シリーズで辿ってきた歴史の積み重ねの上に立つ、今の私たちの現在地なのです。

3.さいごに

 かつてのベストセラー本「歴史の終わり」のその書名にかかわらず、歴史は終わりませんでした。『Pumpkin Scissors』が描いたような、はるか遠くにある、しかし確かに存在する絶対の「正義」というのも、語るのが困難な時代になりつつあります。私たちは今一度、これまで歩んできた歴史を、そして今の世界の在り様を別の仕方で語り直さなければならない時代にあるということです。

 一方で、そんな新しい問題意識を背景にして、これからはまた一味違った歴史ものマンガが創作されることもあるのでしょう。そういうふうにして、これからも続いていく私たちの世界に、時代の荒波に、歴史ものマンガが寄り添ってくれたら。一マンガファンとしてそう願って、本記事シリーズの締めくくりとさせていただきます。

  
 ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


(おわり)

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