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異世界もの苦手マンが『無職転生』にハマったという話 下 ~『無職転生』と「親ガチャ」問題~

(サムネは小説版『無職転生 ~異世界行ったら本気出す~』1巻表紙より)

(本記事は「異世界もの苦手マンが『無職転生』にハマったという話 上 ~ルディは本当に優れているのか?~」の続きです)

3. 「親ガチャ」問題の射程

3-1. 「親ガチャ」問題とは

 結局は「持てる者」が正しく、「持たざる者」は負ける運命にあるのではないか。この問題意識って、まさに時々ネットで話題になる「親ガチャ」問題です。

 「親ガチャ」問題とは、どのような親の下に生まれるかは「ガチャ」のようにランダムに決まるのに、その親次第でその後の人生が大きく決定づけられてしまう、ということを言った言葉です。これに対してはよく「親をスマホゲームのキャラに例える若者の下らない言葉遊びだ」とか、「どんな親であっても、努力で人生は変えられる」とか、「努力したくない若者の言い訳だ」とか、いろんな批判が向けられるわけですが、ここまで論争を引き起こしていること自体、そんな簡単な言葉ではとても払いきれない、ある種核心を突いた表現であることの証なのだと思います。

 例えば、立派な職業についてお金を稼ごうにも、それには学歴が必要で、学歴を得るには塾や私立学校に通うための金が必要になり、親にその経済力がなかったら詰んでしまう。あるいは、仮にその経済力があっても、親が自分の進路を束縛してきたら、自由に進路を選べない。子は親に従わなければならない、という文化はかつてに比べて遥かに薄まりましたが、それでもなお、どんな親の下に生まれるかは、その後の子の人生を大きく決定してしまう、というわけです。

 自分にはどうしようもないのに自分の人生を決定してしまうもの、それは何も親だけではありません。例えば幼少期に住んでいる地域が治安のあまりよくないところで、いじめが横行している小学校にはいってしまったら、いじめに加担する、あるいはいじめの対象になってしまい、人生が大きく変わってしまうかもしれない。あるいは、親に経済力がなくても、それを補完する返済義務の無い奨学金や無償教育が充実していれば人生の選択肢は広がりますが、残念ながら今の日本はそれが十分に整備されているわけではない。そもそも日本という国そのものが、中間層が減少し、経済力がある親と、ない親の二分化が激化する傾向にある。そのような様々な要素が絡み合い、特に若者は「自分の人生が自分でコントロールできない」という心象に、向き合わざるを得なくなっているのだと思います。

3-2. 「親ガチャ」問題の影響

 そんな心象は、具体的にどのような問題を招くのか。一つは、上記のとおり『無職転生』が自覚的に表現している、「優れた人生を送った者を、そのまま評価できない」という問題。立派な職業についても、それはそいつが偉いんじゃなくて、運がよかっただけ。環境がよかっただけ。「持てる者」であっただけ。本来評価されてもいいはずの人が、評価されなくなってしまうわけです。

 もっと怖い問題が、「生まれた時点で人生はだいたい決まっているのだから、努力するだけ無駄である」という諦念です。自分のあずかり知らぬところで自分に与えられたスペックが低かったら、「持たざる者」であったら、もう初めから敗北は決まっている。「努力をすれば報われる」という物語など、幻想である。ならばわざわざコストをかけて努力をすることなどまるで無駄であるのは、というのはある意味道理でしょう。

※ 「努力をしなくてもチート能力が手に入る」というチート能力ものの流行自体が、こうした現代の心象風景の反映であるという指摘もあります。私は先ほど「チート能力ものは本質的な虚しさを抱えている」と述べましたが、そもそも努力自体が虚しい行為なのだから、「努力のないチート能力の虚しさ」というのも観念できない、ということです。詳しくは以下参照。

 生まれた時点で人生はだいたい決まっているのだから、努力するだけ無駄である。この諦念が広がり切ってしまうと、まず社会の前進は止まります。誰かが努力をするからこそ、技術は発展し、社会制度は改善し、私たちの生活は向上するわけです。それがなくなってしまったら、長期的に待っているのは、私たちの生活水準自体の後退です。

 そして個人レベルで行き着く思想が、反出生主義です。「生まれてこなければよかったのでは?」という心象です。

 生まれた時点で持っているもので人生はだいたい決まっている。ならば、その持っているものが貧しかったら、その人生がロクなものにならないことは、既に決まっているわけです。運よく良い環境、才能を持って生まれた人には、良い人生が約束されていますから、それはそれで存分に生きればいい。しかし、環境や才能に恵まれなかったら、それは初めから失敗が決まっている人生である。で、その人生の間ずっと苦しむくらいなら、そもそも生まれてこないほうがよかったのではないでしょうか? なぜかって? 生まれてこなければ、苦しみはゼロなのですから。

 これはさらに進むと、反出産主義にも至ります。もし生まれた時点で人生が決定づけられるなら、親は子供をつくるにあたって、その子供が送ることになる人生の行方もある程度わかるはずです。そして、子に与えうる環境や経済的な状況から、子供に満足なスペックを与えることができそうにない場合は、子供は生むべきではない。そうでないと、自らの生に苦しむ存在を、いたずらに増やすことになるのですから。

 これは極端な意見などではなく、例えば障がいを抱えた子のことを考えると、にわかに身近な問題として立ち上がります。仮に、あくまで仮にですが、ある特定の障がいを抱えて生まれると苦労をする人生が決まってしまい、一定の確率でその特定の障がいを抱えた子が生まれるとすれば、子をつくることは、果たして正義なのでしょうか? 私たちは、その問いにちゃんと答えた上で、子をつくっているのでしょうか?

 ここまで論が進めると、やはり『無職転生』という物語はこの一連の問題を無視できないわけです。『無職転生』は、家族を作る物語でもあるのですから。ルディは結局3人の女性と結婚し、最終回までに4人の子供を作ることになります。『無職転生』が「その努力も結局与えられた才能や環境のおかげでしかないのではないか」という、もう一段深いところにある虚しさを問い、その虚しさの先には反出産主義があるなら、やはり『無職転生』は、その虚しさをちゃんと超えていかなければならないのです。

4. 『無職転生』の思想

 では『無職転生』はその「人生の成功は、生まれ持った才能や環境で決まってしまうのではないか?」という問題(これを以下「環境決定論」と言います)に、いかに取り組んでいるのでしょうか。

4-1. 「ヒトガミ」の存在

 ここまで議論を進めてみると、本作が真の敵を「神」に見定めているというのは、結構興味深いお話だと思うのです。

 環境決定論への反論の仕方として、「環境で人生は決定してしまう」という部分を否定するのではなく、「そもそも環境自体自分で変えられるので、環境で人生が決定してしまうというのを嘆く必要はないのでは?」というのがあります。言い換えるならば、配られたカードで人生が決まるのならば、そもそもそのカード自体を変えてしまえ!という言い返しです。

 ならばその配るカードを決めているのは誰か、というと、それは「神」というしかありません。自分の親が誰と誰であり、自分がそこからどんな遺伝を受け継いでどんな環境に生まれるか、というのを、特定の誰かが決定しているわけではありません。それは偶然、あるいはもう少しロマンチックに言うと「運命」とでもいうものであり、それを司るのは誰かと言えば、それは「神」であるとしか言いようがないのです。

 とすると、本作が異世界の特定の勢力と戦う物語ではなく、「ヒトガミ」に抗う物語になっているのは、本作がまさにその「配られたカード自体を変えてしまえ!」を実践しようとしているからなのではないでしょうか。ヒトガミはルディのあずかり知らぬところで彼の人生を操作し、いいように決定しようとする。そして本作は紆余曲折を経て、最終的にそれに反旗を翻し、自分の人生の操作権を取り戻すストーリーに至る。それはまさに、本作が上記の環境決定論に反抗しようとしていることの、一つの現れとも解釈できるわけです。

4-2. 「ターニングポイント」の存在

 とはいえ、「神」への反抗など、現実世界に私たちにとってはファンタジーでしかない。『無職転生』が本気で環境決定論を超えていこうとするならば、もっと実践的な回答が欲しいところです。そして、その実践的な回答にもちゃんと取り組んでいるところが、この『無職転生』という作品の面白いところです。

 それが端的に表れているのが、本作の「ターニングポイント」方式なのだと思います。「なろう」サイト原作で閑話含め286話ある本作ですが、うち5つのエピソードのタイトルが「ターニングポイント」というタイトルになっており、内容は以下のとおりです。

 第19話「ターニングポイント」(転移事件)
 第59話「ターニングポイント2」(オルステッドとの邂逅)
 第109話「ターニングポイント3」(ゼニス行方不明の報)
 第153話「ターニングポイント4」(未来からの来訪者)
 第258話「ターニングポイント5」(ギース撃破)

 それぞれまさに本作のストーリーの「ターニングポイント」というにふさわしいエピソードなのですが、「人生の成功は、生まれ持った才能や環境で決まってしまうのではないか?」という命題からこれらを眺めた時、このターニングポイントはそのそれぞれのやり方で、その命題へのアンチテーゼとして機能していると思うのです。

 最初の3つのターニングポイントがアンチテーゼたるのは、それらが、ルディの生まれ持ったものを奪う、もしくは挫くエピソードであるからです。転移事件はルディの環境、家庭を根こそぎ奪った。オルステッドの邂逅は、ルディに人生初めての、才能ではどうにもならない挫折をもたらした。ゼニス行方不明の報は、そのまま両親の喪失をもたらした。どれも、彼が生まれ持った才能、環境を損なうきっかけとなるエピソードになっている。しかし、それでも彼はその後立ち上がり、最終的にはターニングポイント5というヒトガミへの勝利をもたらすわけです。だから、ターニングポイント1~3と5は、ただの物語のフックではない。「ルーデウスは才能と環境に恵まれていただけだ」という問いかけに、本作が再反論できるストーリーになるために擁された、重要な要素なのだと思います。
   
 しかしそれだけでは、「いやいやそのルディの再起自体、才能があったからこそできたんでしょう」といった再々反論を招き、議論が結論の出ない水掛け論になる可能性もあります。そこで導入されるのが、ターニングポイント4です。

 これは老いたルディが未来から現れ、これから起きることを若きルディに教えてくれるというエピソードなのですが、その未来というのが、まさに壮絶の一言です。老いたルディが現れたその日から間もなくロキシーが不慮の事故で死に、それがきっかけでルディは鬱になってしまう。シルフィはルディのもとを離れ革命に生きた結果民に蹂躙され、エリスとも別れたきりになる。そしてルディは孤独の身となり、最期の力を振り絞って過去に転移、若き自分に悲劇の未来の回避を指示したのです。

 このエピソード、語られる未来が衝撃的すぎて、読んでいる側としてはそれだけ非常に盛り上がってしまうストーリーなのですが、「人生の成功は、生まれ持った才能や環境で決まってしまうのではないか?」という観点から考えた時、このエピソードから示唆されることは2点あります。

 一つは、どれだけ才能や環境が恵まれていても、どうしようもない破滅に至ることがあること。ルディは才能や環境に恵まれていながら、上記のように悲劇的な結末を迎えてしまった。これ自体、「人生の成功は、恵まれた才能や環境で決まる」ということへの反証だと思います。

 そしてそれ以上に本作にとって重大なのが、この「未来からの来訪者」によって、今後のルディの成功が、全部「たまたま」でしかないものになったことです。それは、「たまたま才能や環境が恵まれていた」というような「たまたま」よりも、一段レベルが上の話です。

 「才能や環境が恵まれていたから、成功した」というのは、才能や環境は自分ではどうにもならない部分があるとはいえ、その因果関係自体は納得のいくものであり、その意味の限りにおいて、それは私たちにとって理不尽な事象ではありません。しかし、「未来の自分がやってきて、これから自分が直近でやらかす失敗を一つ教えてくれたから、成功した」って言われると、どうでしょうか。これはもう、ルディの努力がどうとかいう話ではもちろんないし、才能や環境が恵まれていたからとかでもない。常に未来を常に見通せる力を得たとかではないから、いわゆる「チート能力」とも異なる。天から降ってきたただ一度の偶然の幸運によって、ルディは人生の暗転を回避し、ターニングポイント5という勝利を得ているのです。

 だから、ターニングポイント4は、いわば『無職転生』にとって、環境決定論への捨て身の反論なのです。ルディは恵まれた才能や環境を持ち合わせていたが、それでも破滅する可能性があった。では、その破滅をルディが回避できたのはなぜかというと、ルディの努力や人間性のおかげではない。それは、「たまたま」である。偶然の産物である。ルディの人生はそうとしか言いようがないものに、ターニングポイント4への到達をもって不可逆的に変質してしまうのです。

4-3. 『無職転生』の思想

 ここに、『無職転生』の「人生」というものに対する懊悩があるのです。『無職転生』は、ルディの成功した人生に対して諸手を挙げて称賛せず、「才能や環境に恵まれていただけでは?」と問いかける。そしてその「親ガチャ」問題に対して、ターニングポイント1~3をもって、ルディが才能や環境を喪失しながらも成功を収める展開を導入し、「親ガチャ」問題に再反論を行う。しかし、ターニングポイント4で、ルディの成功が重大な形で「偶然」に負っており、やはりルディの成功を、ルディの努力や人間性に帰することを妨げようとする。こういうどうどう巡りを、本作はこの長大なストーリーを通して行うわけです。

 それが総体として示すのは、ただ一つ。「人生のままならなさ」です。人生は自分でコントロールできないし、では何が人生をコントロールするのかもわからない。そして、人の優劣と、その人の人生の評価を結びつけるのもとても容易なことではない。人生を決定できないこと、人生を評価することも甚だ困難であること、この二重の意味での「ままならなさ」を、本作はルディという主人公の人生をもって、示しているのだと思います。

 この「ままならなさ」とはつまり「人生何もわからん」ということであり、結局何も実のあることは言えていないではないか、という意見もあるでしょう。それはその通りだと思います。

 それはその通りではあるのですが、しかしそれは確実に、「親ガチャ問題」をはじめ、私たちを蝕もうとしている環境決定論への、強い反証にはなっているのではないでしょうか? 私たちは、「親ガチャ」という言葉を使いながら、「どうせもう自分の人生は決まっているんだ」と断じる心象に囚われつつある。自分の人生はどうせダメなんだ、そんな諦観が流布しつつある。その諦観に「努力は実を結ぶ!」なんて言っても、それは空虚な言葉でしかないし、水掛け論を招くだけでしょう。

 しかし本作は、主人公であるルディの優秀性に疑問を付してまで、「人生を決定するのは何か」を決定することがいかに難しいか、人生の良し悪しと「あなた」という人間の良し悪しがいかに等価でないかを、長大な人生譚をもって、ぶつけてくる。これを目にすると、確かに「努力は実を結ぶ!」とは言えないけれど、それと同じくらい、「努力は実を結ばない!」ということも決して言うことができないということが、わかってくると思うのです。人生というものが、「親ガチャ」という4文字でとらえるにはあまりにも難解で不条理なものである可能性を、認識せざるを得なくなると思うのです。

 そしてその可能性を認識することで、私たちはようやく、人生のスタート地点に立てるのではないでしょうか? 私たちの人生は、まだ良くも悪くも何も決まっていない。そういう意味で、「親ガチャ問題」の沼から抜け出すことができるのではないでしょうか?

 『無職転生』は2015年に完結しています。しかし人生の先行きに、意味づけに迷う今だからこそ、様々な人の心に届きうる物語である。そう感じるのです。


(終わり)

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