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LINEやメールで喋るとき、あるいは相手の言葉を読むとき、脳内でその言葉を音声に変えて聞いているのだろうか。
おそらくは本を速読する人のように、文字が目に入るのと同時に内容を理解している。音読せずに済ませている。それなのに、メールやLINEを目にしたあと、脳内に音の抑揚のようなものが残るのはなぜなのか。
その音は、君の声でも、あなたの声でもない。どうやらたぶん思うに、自分の声で相手の言葉を再生している。

録音された自分の声を聞く機会が増えた。
へんな声だなあ自分じゃないみたいと言うと、いやあなたはそういう声ですよ、と周りが教えてくれたりする。
自分に聞こえている自らの声と、他の人に聞こえている声とが違うことは、よく知られたことだけれど、いざ実際に耳にしてみると、どうしても違和感がある。
同じように、鏡に映る自分と、人に見えている自分とも、違っているのだろうと考え始めると[自分]をかたち作るものの頼りなさに気づく。
自分で、おそらくこうであろうと、思い描いている自分の姿など、隈取りをした役者の顔のようなもの。素顔を見せられたら、誰かしらといぶかったりするのだ。写真だって録画だって、少し違っているかも知れない。あてにはならない。

発した声は空気を伝わり相手の耳に届く。かたや自分には、声帯の振動が頭蓋骨を伝わって届く。前者を気導音、後者を骨導音というそうだ。通る路が違うから、声は姿を変えて届く。

もう長いこと会えていない友だちの声を、思い出せるかどうか考えてみることがある。大抵は大丈夫、脳内で再現できる。あわせてその声の主の面差しも浮かび、ちいさな思い出も心に現れる。
思い出せそうで再現できない声もある。おそらくたぶんきっともう会わないあの人の声。あんなに近くにいたのに、いたはずなのに、その顔の輪郭もぼやける。思い出にも、うまく近づけない。

友からのメールが届いた。
その中で、わたしが送ったぬいぐるみを、石窯パンみたい、と形容してある。なんとも彼女らしい言い回しだなと嬉しくなる。彼女とはもう長いこと会っていない。声は思い出せる。でもそれより、変わらぬ人となりが文面に現れていて、思い出よりも私の心をあたためる。そしてわたしと同等に歳を重ね、身につけたであろう何か、をもメールから感じとることができる。
それはあえて言葉にするなら、優しさであったり誠実さであったり、美意識や合理主義であったりする。

この声できっとたぶんおそらく明日も生きる。君にいつか、思い出してもらえるように。




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