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雨のあと

夜半から翌朝まで、激しい雨が降り続いた。これまでに体験したどの雨とも違い轟々と波打つような降りで、屋根を叩くというより、家が流れのただ中に置かれ洗われているようだった。序破急の別なく、ひたすら同じフォルテシモの雨脚が永遠と思われるほど続く。浅い眠りのまま、夜明け過ぎにようやくそれは見知った強さの雨となった。

雨のせいなのか何なのか、翌日から日中の気温が10度以上も下がった。長袖を着ても心なしか肌寒い。こうなると着るものはもちろん食べるものも自ずと変わる。何のために生きているんだろう、とか、そういう暑い時には考えなくてよかったことを考えたりもする。肺の中ほどにある何かや、耳の裏側に隠している気持ちを言葉にしてみたくなる。それでいて日々は同じことの繰り返しだ。父母と、天気や食べものの話をしながら時は過ぎていく。


男性の同僚3人が、蕎麦の話に興じているのに居合わせたのは少し前のことだ。彼らは私より少し年上か若干年下か。蕎麦か。この人たち、おじさんだ!と心の内で思う。このうちの一人が、やがて蕎麦打ちとか始めるのだ。こわいこわい。
これは、かくいう私がおばさんであることの裏返しでもあって、ふとその狭い一室を俯瞰するような心持ちになる。雨のち晴れを繰り返して、みな着実に歳を重ねている。おばさんは何の話題に興じたらよいのか。野菜の値段とか?かつて祖母と母が、何気なく交わす話題が野菜の値段についてばかりで、こども心にもなんてつまらないんだろうと感じていたのを思い出す。


ちかしいもの同士であれば、何が本当の幸せか、などという話はしない。免疫とは何か、とか、日本の歴史をどうとらえるか、と語り合うことはない。職場の休憩時間に、政治も思想も現れないのはむしろ良いことなのだろう。


気温が下がり、身体の内の熱も冷めたようになって、高い空に何かを言い当てられたような気持ちになる。そんな季節を予習した。
東は陽射しと暑さが戻ったが、西国はまだ雨が残るという。野菜が高くなるね、と母と話す私。幸せとは何か。自己とは。課題も命題も棚に上げて、もう少し夏は続く。



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