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大人なのだから

今月また誕生日を迎える。
「お誕生日月はポイント2倍!」というようなDMがはらはらとポストやスマホに舞い込む。実際の誕生日は月の末の方なのだが、ああ3月になったんだなあ、と思う。

3月は年度末でもあって、街路樹の剪定や伐採作業に遭遇することがある。あるいはその作業後の、切り株を目にする。ある一定以上太くなった街路樹は伐採するという決まりでもあるのか、知らぬ間に歩道に空間があき、木が消えている。
切り株は四角いコンクリートの枠いっぱいに広がっていて、ふだん見慣れた街路樹の根はこんなにも太いものであったのかと、低いテーブルのようなそれを見下ろす。

今月の誕生日が何回目かを考えると、そら恐ろしいような、暖かいような、不思議な心持ちになる。一向に大人にはなれないまま、ここまできた。その進歩のなさに呆れ、だからこそ生きてこられたことに感じ入る。
それでもこのごろは、大人としての身の処し方、などというものも考えることがある。考えて身につけられるものでもないが、判断に迷う時、大人なのだから、とわがままな自分をたしなめる。

もっとも、世間では大人としての生き方云々という本が数多出ていて、その著者も読者も、わたしよりずっと年かさのようでもあるから、人は生涯、大人たらんと自らをたしなめて過ごすのかも知れない。
子どもの頃、身の周りの大人たちはなぜ、あんなに渋い顔をしたり、へんな息を吐いたりするのだろうと思っていた。右に倣うような物言い、疲れているアピール。
顧みれば、そのどれも得意になっていそうで、今度は本当に背中が寒くなる。


街路樹の切り株は、翌日にはさらに解され、ウッドチップ状になっている。未練も草臥れたそぶりもないまま、さらさらと消えていく。
できるなら、よく見聞きしわかり、穏やかな顔で、少しだけおかしなことを言いながら歳を重ねたい。テーブルのように根を張って、今立っている、この場所で。




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