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保育園に預けて働くこと。後ろめたくないわけじゃないけど

先日、郵便受けを開けると封筒が二通入っていた。差出人欄を見て、春からの保育園利用の決定通知書だと見当がつく。この街でも、待機児童問題はけっして人ごとではない。はやる気持ちを抑えてハサミを入れ、文面を確認する。
どうやら、春から我が子二人とも希望の保育園に通えるらしい。自宅から最も近く、評判の良い保育園。これで、予定どおり仕事復帰できそうだとほっとする。

何にでも興味を持つ上の子が、通知書を触りたくて手を伸ばす。その手をやんわり遮ながら、腰を曲げて娘の視線に合わせ「春から、保育園行けるんだって」と言うと、「うん」とニコニコして頷いた。
「春」も、「保育園」の意味もわかっていない娘。それでもお母さんが笑って話しているから、合わせているのだろう。

「保育園に行ったら、お友達たくさんいるよ」
「いいなぁ。お父さんやお母さん、〇〇(弟)だけじゃなくて、保育園の先生やお友達とも遊べるんだよ」

自分の口調が、どこか言い訳めいているなぁなんて、頭の片隅で思う。
保育園に預けるのは、自分のため。でも、子供のためにもなるはずだって、自分に言い聞かせているみたい。

保育園に入る頃、上の子は2歳で、下の子はまだ生後半年だ。
生後半年というのは、この保育園では入園できる最低年齢である。息子は生後半年になったその瞬間から入園することになる。保育園で一番小さい月齢の息子。さすがに早すぎるかと思う気持ちもある。おそらく夫以外の身内にさえ、もう少し大きくなってからでもいいのではと思われている。正直言って、こんなに早いうちから日中に母と過ごす時間を奪ってしまい、可哀想だと、申し訳なく思っている。

娘とは二年間、息子とは半年間、家でずっと一緒に過ごしてきた。片時も離れる時間はなかった。だから、初めての寝返りも、ハイハイも、タッチも、その成長を間近で見守ることができた。
お昼寝タイムだと言ってゴロンと川の字に寝転がって手を繋いだり、紙芝居屋さんだと言って二人の子を前に絵本を広げた。泣いているか寝ているかの新生児期を過ぎて、どんどん表情は豊かになった。イヤイヤ期も迎えた。一度言葉を話し始めると、ものすごい勢いで語彙が増えた。今ではたどたどしいながらも会話が成立する。
大変じゃなかったといえば嘘になるが、温かく幸せな時間だった。四六時中一緒に過ごしてきた我が子たち。可愛いに決まっている。

それでも預けて働きに出るのは、私のエゴだと思う。
社会から取り残されてしまったような気持ちがずっとあったし、途切れたキャリアが気になっていたのだから。そういう意味では、我が子より自分を優先したのかもしれない。後ろめたさはある。

だけど、同時に強く思うこと。それは、私自身が我が子たちをエゴの犠牲だと思いたくないし、させてもいけないということ。
働く姿を通して、何かを感じてもらいたい。家にいる時間は思いきり甘えさせてあげたい。仕事も家庭も、どちらも大切に守っていきたい。
保育園では集団生活の中で楽しく学んでほしい。きっと四六時中親と一緒に過ごすことだけが善ではないはずだし、多くの人と関わって、揉まれて、優しさと強さを身につけてほしい。

私自身、子供と離れる寂しさはもちろんあるし、登園するときに泣かれたら苦しくてこちらまで涙腺崩壊するんじゃないかと心配だ。離れたくない気持ちだってある。でも、子供と離れる時間があるからこそ、一緒に過ごす時には今よりもっと優しくしてあげられるような気もしている。

心配や後ろめたさが全くない決断ではない。それでも、これがベストな選択だと自信が持てるよう、私は仕事の時間は懸命に社会人として働きたい。


先日、子供二人を連れて入園説明会に行ってきた。口コミどおりの素敵な園で、先生方も優しく子供に話しかけてくれる。それは私の心を随分と楽にしてくれた。
息子はまだ何もわからず、私の腕に抱っこされながら微睡んでいたけれど、もうすぐ2歳になる娘は見知らぬ人たちの前で周囲を警戒するかのように硬い表情を見せていた。私の足元から離れず、手を握り、近くにいる娘より少し大きい子のことも気になりながら目を合わそうとはしない。
そんな姿を見ていると、けっして楽しいだけではない子供の世界に、こんな小さな体で飛び込ませること、慣れるまでは心身ともに大変だろうことを思い、可哀想だという気持ちがむくむくと湧き上がる。
でもそれは、きっと何歳だって同じだ。4歳だって、6歳だって、初めて親元から離れる時には同じ気持ちで見送るのだろう。心配して、この子の世界が楽しく優しいものであってほしいと願うはずだ。

だから、素敵な園に入園できるその環境に感謝して、私は懸命に働こう。そして一緒に過ごす時間には、たくさん抱きしめ、楽しく過ごさせてあげよう。

入園まで残り1ヶ月。まだまだ長いと思っていた時間が途端に短く思えて、その貴重さを実感する。
「今日は何して遊ぼっか」
娘がクレヨンと塗り絵を持ってくる。その顔はとても嬉しそうだ。
「たーたん(お母さん)も」
そう言って、ケースからクレヨンを一本取り渡してくれる。受け取ると、娘は満足したように笑い、絵を無視して大きな丸をぐるっと描く。それから色を替えて、ぐるぐると自由に塗りたくる。
「たーたんも」
催促され、枠の中を塗っていく。娘のクレヨンが枠内に大胆に侵入してきて、共同作品のようになる。一緒に遊んだ証。
私はこのゆっくり流れる時間を、我が子の笑顔を、生涯忘れないだろう。










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