『ショーシャンクの空に』 - それは誰の物語か
これは1994年に公開された映画『ショーシャンクの空に』のポスターに書かれたタグラインだ。その言葉にあるようにこの映画が''希望''をテーマとした作品というのは承知の通りだろう。
だが、この映画が主題として描くのはそれだけではない。
日本では『ショーシャンクの空に』という爽やかな邦題が付けられているが、原題は『The Shawshank Redemption』という少々お堅いもの。
The Shawshankはそのままショーシャンク刑務所のことで、Redemptionという単語はあまり見慣れないが日本語で''救済''や''贖罪''と訳される。
その’’ショーシャンク刑務所の救済(贖罪)’’とはアンディの脱獄のことだろうか。受け取り方にもよるが、恐らくRedemptionが表しているのはそうじゃないだろう。本作は''高い壁の中で刑務所という構造に心まで囚われてしまったレッドが、アンディが持つ眩い希望の光に導かれて真の自由を取り戻すまで(そして真に罪を償うまで)''を描いた作品である。
『ショーシャンクの空に』は紛れもなく、レッドの物語だ。
これは映画の原作であるスティーブン・キングの中編『刑務所のリタ・ヘイワース(原題:Rita Hayworth and Shawshank Redemption)』の導入だ。小説では導入から結末に至るまで全編レッドの手記という設定で、彼の視点から語られていく。
その点は映画も同様で、全編に渡りレッドのナレーションと共に進められていくが、映画では冒頭の裁判のシーンだけレッド不在で描かれる。だが小説ではそれも誰もが知っている有名な事件、かつ詳細はアンディから聞き出したという体でレッドの言葉で語られる。そこからも分かる通り、原作に関して言えば完全にレッドの物語なのだ。だが映画は果たしてそうなのだろうか。
ここから原作と映画の違いも交えながら、レッドの物語としての『ショーシャンクの空に』を解説していこう。冒頭でアンディの脱獄というワードを使っているので今更ではあるが、物語の詳細に切り込んでいくので未見の方はネタバレ注意だ。
映画では詳細について語られないが、小説ではレッドは殺人罪で3回分の終身刑を課されている。彼は妻にかけた莫大な生命保険を手にするために、妻が乗る車のブレーキに細工をした。その結果、妻と運悪くその車に乗り合わせた近所の女性とその息子の計3名の命を奪ってしまったのだ(但し映画は設定が変わっている可能性も高い)。ショーシャンク刑務所では受刑者の殆どが自分を無実と言い張るが、レッドは自らの罪を認めている。彼は自分が犯した取り返しのつかない行為を悔やみ良心の呵責に悩む、本作においては稀有な人物なのだ。
一方で彼は自分の行いに悔いながらもこの段階では自由を諦めていなかった。面接では硬い表情で「自分はもう外に出しても大丈夫な人間だ」と必死に面接官たち全員を説得する様に訴えかけている(視点を見ると面接官全員に語りかけている事が分かる)。その挙動や発言からは''もしかすると釈放されるかも…''という希望を感じさせる。劇中では合計3回の面接シーンが出てくるがトーンや語り口、表情も全く違い、そこからレッドの心情が伺うことができる。その点はまた後述。
レッドはアンディを初めて目にした時、その弱々しい姿に直感で煙草10本という大博打を打つ。結果その勝負は負けてしまう訳だが、本作でレッドがアンディに大きく賭けるのは一度じゃない。ラストでレッドは仮釈放後、国境を越えられるか、目的地まで無事に辿り着けるか、辿り着いたとして本当にアンディに再会できるのか…と確信を持てないながらも彼はアンディに全てを賭けてジワタネホへ向かった。その結果はご承知の通り。レッドとアンディの関係は賭けに始まり、賭けに終わるのだ。
因みにアンディは「長身のお坊ちゃん」と呼ばれているが、原作では金縁眼鏡をかけた身嗜みの良い小柄な男と書かれており、個人的なイメージとしては映画のノートン所長(小柄ではないが)に近い。暴漢たちが様々な囚人がいる中で何故わざわざ大柄(180cm)なアンディを犯そうとするのか謎だったが、原作の小柄で身嗜みの良いという設定であれば納得は出来る。
またここで「フィッシュ(新入り)ちゃん歓迎するぜ」と言っているアフリカ系の男はモーガン・フリーマンの次男で、仮釈放可否を問う面談シーンで使われるレッドの入獄当時の写真も彼だ。
この辺りのエピソードは原作と大きく異なる。そもそも原作ではブルックスについてこれほどまでに大きくフォーカスされない。原作でジェイクはカラスでなく鳩で、育てていたのはブルックスではない別の男だ。その男が出所時に逃してやるのは同様だが、後日運動場で死んでいるジェイクが発見される。また老いたブルックスが仮釈放され絶望するのは共通だが、原作の彼は自死ではなく貧困老人の収容所で死んだ、とだけ数行で述べられている。
そんな原作では頭の片隅にも残らない些細な出来事が、映画ではレッドとの対比となるエピソードとして見事に昇華されている。ブルックスとレッドは共に若い頃に収監され、外の世界の変化も知らないまま長年服役する。ブルックスは図書室の管理役、レッドは調達屋として役割を見つけ、刑務所内の社会構造に自ら組み込まれることで檻の中に居場所を見出してしまった。檻の中にしか居場所が無かったブルックスが自殺した事を知りレッドは「哀れな最期だ」と言いつつ自分を重ねる。そして自由を得ても自分はそこで生きられないのでは、と思ってしまうのだ。ブルックスとレッドの仮釈放シーンの対比についてはまた後ほど。
ブルックスが育てたカラスのジェイクのその後について映画では描かれていないが、実は削除シーンにその描写があったとフランク・ダラボン監督は後に認めている。そのシーンではブルックスが釈放された後日、アンディとその仲間は運動場でジェイクの死体を発見し簡単な葬式を行ったそうだ。そのシーンがあればジェイクは檻の中でしか生きられないブルックスの写し鏡として機能したが、監督はそれを望まなかった。自由を知らず育ったジェイクだが、彼はきっとどこかで大空を飛び回っていると観客に希望を持たせたかったのだろう。自由を忘れてしまっても再び羽ばたくことが出来るんだと。監督はジェイクをブルックスではなく、レッドの象徴にすることを選んだのだ。
レッドは後にアンディを光り輝く美しい羽を持った鳥と例えた。自由に羽ばたく時、その美しさで心を満たしてくれる鳥だと。アンディは刑務所にいながら仲間たちにビールを奢り、好きな音楽を皆に聴かせ、そこに束の間の自由を見出していた。レッドにはアンディが果てなく広がる空を眺める籠の中の美しい鳥の様に見えていたのだろう。アンディは自由になるべき存在だった、とレッドはずっと知っていたのだ。
ノートン所長がアンディを値踏みするシーンで、彼らはお互い聖書の好きな一節を言い合う。
キリストを待ち望む使徒の言葉を引用し即座に主従関係を明確にすることで懐に飛び込むアンディのスマートさと、それに対しキリストの言葉を引用したノートンの傲慢さが如実に現れた掛け合いだ。その後、ノートン所長の部屋に呼び出されたアンディは「His judgment cometh and that right soon. (主の裁きは下る いずれ間もなく)」という壁掛けを目にする。それらしい雰囲気を醸し出してはいるが、これは19世紀によく使われた一文だそうで、実のところ聖書の言葉でもなんでもない。神ではなく人の言葉なのだ。ノートンはこの壁掛けの裏に賄賂の証拠を隠していたが、その結果アンディに足元を掬われる。神による天罰ではなく、人(アンディ)によって罰せられるラストを示唆しているのだ。
また、レコードを大音量でかけるシーンは映画オリジナルだ。レッドは「フィガロの結婚」を聴きながら、きっと美しい内容の歌なのだろうと語るが、実は不倫をしている夫を罠に掛けようとする妻についての歌詞だそう。不倫した妻と間男を殺害した罪で囚われたアンディがこのレコードをかけるとは、何とも皮肉が込められている。その歌詞についてレッドは「知らない方が良いこともある」と語る。レッド、それで正解だ。
希望を持つことの大切さを説くアンディに対し、レッドは希望は危険だとこれまで見せたことのない表情で反論する。レッドはこの時点で希望を失っていた。前回の面接では自分は仮釈放に値すると訴えるも棄却され、自分と同じ境遇のブルックスは仮釈放となるも自由に耐えきれず死んだ。監獄の外の世界にも希望はない。ならば慣れ親しんだ塀の中に居続ける方が良いのではないか、と思い始める。「希望は危険だ」とアンディに訴えた後に、面接で見せた微笑みには諦めの感情が込められていた。「自分は更生した」と言いながらもその目は伏せ気味で、一度目のように誰かに伝えようとする意思は感じられなかった。
希望の象徴である音楽(=ハーモニカ)をアンディからプレゼントされるも、レッドは結局吹く事をやめてしまった。刑務所での30年の歳月が彼から希望を奪ったことがここで示唆される。因みレッドの面接シーンは全て映画オリジナルの脚色だ。
原作ではトミーは死なない。アンディに有利な証言をしない事を条件に、待遇の良い(週一で家族のもとに帰れたりする)刑務所へ移監されていく。
赤ん坊がいる父親の立場を慮るとその決断も分からなくもない。
トミーの高卒認定試験合格に驚くレッドだが、トミーが殺された事でやはり希望は毒だという認識を強める。その猛毒に侵されてアンディの心が壊れかけていると彼は感じ取るのだ。
消沈するアンディに優しく声を掛けるレッド。希望は心を蝕むと言い続けていたレッドは、弱音を吐くアンディを見て遂に希望を失い心を折られてしまったのだと思い慰める。それでも儚げな笑顔を浮かべながら夢を語るアンディにレッドは「そんなpipe dream(=夢物語)は捨てろ」と忠告する。だが翌日、アンディはpipe(パイプ)の中を這って脱獄し夢を実現させる。彼にとってpipe dreamは夢物語では無かったのだ。
またアンディは「必死に生きるか、必死に死ぬかの二択だ」と言い、レッドにもし仮釈放になったら…という旨を伝えその場を去る。アンディとしては上述の二択の前者を選び純粋にお願い事をしているだけだが、アンディが希望を失ってしまったと思っているレッドは彼が二択の後者を選ぶと思い、それを遺言だと捉えてしまった。アンディがここでレッドに脱獄すると話していてもレッドはそれを夢物語だと言っただろう。彼は希望を信じていなかったのだから。
アンディが脱獄した事を知り、レッドの不安は杞憂に終わる。アンディ脱獄の様子が描かれるが、それもレッドのナレーション付き。あくまでその姿はレッドが伝聞し、想像したものなのだ。だからその先もこの物語はアンディではなく、レッドを追い続ける。これはレッドの物語なのだから。アンディが忍耐と希望の力で脱獄し、語っていた夢を叶えようとしていることに想いを馳せ、レッドの心に長年消えていた希望の火が灯る。原作でもこの一連のシークエンスはレッドが断片的な情報から想像したものとして描かれる。
またタイトルのRedemptionは冒頭で述べた通り贖罪とも訳される。ショーシャンクの贖罪とはノートン所長やハドリー看守を意味する言葉でもあるのだろう。この辺りの描写も実は映画ではかなり脚色されている。まず原作ではアンディには外の世界に協力者がいた。その人物がアンディの偽の身分証を作り、アンディが入獄前に所有していた財産を投資に回してくれたのだ(脱獄時その人物は既に亡くなっている)。アンディはノートンの裏金を奪うのではなく、自身の財産を手にすることで夢を叶えるのだ。ノートンは自殺しないが、生力を失ってその後すぐに刑務所長を辞職する。
ここで映画にはない個人的に好きなエピソードを紹介しよう。ノートン所長は看守にアンディが開けたトンネルに潜る事を命令する。看守は嫌々潜るが、そこは穴の空いた下水管と繋がっていた。その看守は進みながら「クソの臭いだ!神様、助けてください!ゲロが出る!神様!」といった後大量に嘔吐する。それを聞いたレッドは長い人生の中でも覚えがない程に笑い転げ、激怒した所長によりそのまま懲罰房に15日閉じ込められた。それでもクソの匂いに嘔吐する看守と、パリッとしたスーツをきて太平洋へ向かうアンディを思い浮かべれば笑いが止まらなかった。懲罰房の15日もレッドには何てことはなかった。それはレッドの心の半分がアンディと共にいたからだ。レッドはアンディの事を想像し、彼に想いを馳せ、檻の中で自由を味わったのだった。映画のレッドらしくない描写なのでカットしたのも納得だが、レッドから喜びと笑いが溢れ出すこのシーンは映像でも観てみたかった。
レッドは訴える。更生など只の言葉だと。そして彼は初めて「私はもう昔と違う。外へ出て大丈夫だ」という表層的な反省とは違う、罪を犯した日から心の中に抱え続けていた罪悪感を吐き出した。そこには外に出たいという感情は一縷たりとも込められていない、自らの行動に対する悔恨だ。希望を諦めた言葉ではなく、真に償いたいと思う想いから溢れ出した言葉だ。彼はアンディが自由になるのを目の当たりにした。アンディは無実で、自由に値するとレッドは知っていた。だが自分は違う。人の命を奪った咎人だ。大罪を償うべき人間だと自認したからこそ「仮釈放なんてどうでもいい」と言い放ったのだ。
更生なんてただの言葉だ、という台詞には刑務所という社会構造への怒りが込められている。ショーシャンクでの生活は、囚人に自らの罪を悔い改めさせるようなものではない。ただ刑務所という小さな構造の中に組み込み、人間から自由と尊厳を奪い去るだけの場所だ。その証拠に誰も罪を認めようとしない。更生なんて「この期間刑務所に入れておけば反省するだろう」と考える政治家が生んだ言葉だと。ましてやノートンやハドリーのような悪人が支配し、アンディのような善人の20年を奪う様な場所で問われる''更生''という言葉に何の意味があるんだ、と語りかける。その言葉から真の贖罪を掬い出した面接官はレッドに仮釈放の許可を与えた。この男は罪と向き合い、どこにいても、いつまでも贖い続けるだろうと感じ取ったのだ。既に述べた様にRedemptionには贖罪という意味を持つ。レッドは本当の意味での贖罪を果たしたのだ。
既に述べた通りこの面接シーンは全て映画の脚色だ。原作では''レッドはすっかり枯れきって、もう外に出しても大丈夫だろうと思われて仮釈放になった''と数行で淡白に描かれている。改めてフランク・ダラボンの脚本の凄さに驚かされる。
仮釈放となったレッドは外の世界に踏み出す。かつて仮釈放となったブルックスと似た格好をしているが、不安一色だったブルックスとは違い、表情は穏やかでその背景は外の世界を映し出す。だがその後ブルックスと同じ部屋に住み、同じ場所で働く中で、ブルックス同様徐々に不安に押しつぶされそうになる。だが彼の心にはアンディが残した希望があった。牧草地でアンディの手紙を見つけレッドの希望は更に強く輝き、彼はアンディを追うという大きな賭けに出る。そこには何も確信はない。アンディが去ってからもう随分経っている。アンディがそこまで辿り着いたのか、そこに住んでいるのかも分からない。パスポートもない老いた犯罪者が国境を越えられるかも不明だ。アンディに再会出来るなんて自信はない。それでも彼は旅立つ事を選んだ。不安以上に胸を高鳴らせる興奮、これは不確実な旅路に出る自由人にしか分からない興奮だ、と最後の語りを残しながら彼はバスに揺られる。その顔は希望に溢れていた。それはアンディが与えた希望だ。牢の中で自由も希望も見失っていたレッドを救済(Redemption)したアンディの希望。これはレッドが救済されるまでを描いた物語だ。
実は原作はここで終わっている。アンディに再会しないのだ。だがそこには確かな希望があり、読者はレッドとアンディの再会を思い浮かべる。ダラボン監督も原作通りレッドがアンディの行方を追うところで物語を終わらせるオープンエンドを望んだ。だが制作会社は視聴者により分かりやすいカタルシスを与える為再会シーンを要請した。そのような経緯もあって、ラストの再会シーンは詳しい様子を見せないあっさりとしたロングショットで描かれている。勿論幸福感に満ちたあのラストも堪らないが、原作通り終わらせても素晴らしい作品という評価に変わりはなかっただろう。
この浜辺のシーンの後に「IN MEMORY OF ALLEN GREENE(アレン・グリーンを偲んで)」と謎の人物への献辞が捧げられている。アレン・グリーンとはフランク・ダラボン監督のエージェントであり、非常に近しい親友でもあった。彼は本作の権利獲得に尽力したが、映画完成の直前にエイズの合併症で亡くなったそうだ。アンディとレッドという親友が再会するラストシーンで、親友を偲ぶメッセージを込めたダラボン監督の心情を想像すると思わず目頭が熱くなる。やはり浜辺のシーンはあって然るべしだったのかもしれない。
ちなみに本作のレッドを以ってマジカルニグロが出てくる映画だと批判される事があるが、それだけは強く否定しておきたい。まずレッドは原作ではアイルランド系だ。映画でもアンディの「何故レッドと?」という問いにレッドが「アイルランド系だからだ」と語っているが、それは原作を意識したジョークだ。レッドの本名はエリス・レディングだが、原作ではその赤髪からレッドと呼ばれていた。キャスティングを決める際に、レッド役の候補としてイーストウッドやハリソン・フォード、ロバート・レッドフォードなどの名俳優が連ねていたが、ダラボン監督は深みある声を決め手にモーガン・フリーマンを選んだ。全編ナレーションが入る映画なのだからそれも納得だ。
そしてマジカルニグロの特徴として、白人を助ける為だけに存在するバックグラウンドの殆どない黒人、という事が挙げられる。ここまで述べてきた通り本作はまるで逆だ。本作ではレッドの内面が何より掘り下げられており、むしろアンディの方が時折何を考えているか分からない存在として描かれる。更に本作で救われるのはアンディではなくレッドだ。確かにレッドは調達屋としてアンディを手助けするが、作品の本質としてどちらが救われたかを考えると一目瞭然だ。(一方でこの作品同様、ダラボン監督×キング原作で作られた『グリーンマイル』に関してはアウトだと思う。)
以上、奇を衒った考察でもないので、読みながら何を今更と思う人もいるだろうが、あまりレッド目線で解説した記事を見かけなかったのでつい長々書いてしまった。この記事を書く為に久々に何度か鑑賞したが、改めて文句をつけようの無い歴史的傑作だ。観るたびに深く感銘し心を震わせる。
今作はPrime videoやNetflix、U-NEXTやHuluでも観れるし、なんと5/20に金曜ロードショーで24年ぶりに地上波放送される。おまけに6/17に4Kリマスター版が劇場で公開されるときた。どうかこのチャンスに多くの人が『ショーシャンクの空に』を観てくれますように。そして本稿がこの素晴らしい作品をより深く堪能するための助力となりますように。
それが私の希望だ。
最後まで読んで頂きありがとうございます。