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彼女の知らないいくつかのこと

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一日一本書き下ろし短編小説。
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#旅

花束を君に

まるでパパ=ジョーのドレッドヘアのように過剰なほど緑豊かな大木はジャマイカの国花リグナムバイタで、紫の小さな五弁の花を沢山咲かせている。桜のように裸の枝に花が咲くわけではないので、満開かどうか判断するのは難しい。いったいこの一本にどのくらいの蕾がついているのか。いずれにしろ、遠目にも濃緑に紫が混ざって見えるくらいには「満開」のその木の下でふたりは珈琲を飲んでいる。ゲストハウスの中庭だった。

「で

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カワイルカ・ツアーはいかが

バンコクで買ったSIMカードを挿した彼のスマートフォンは時にカンボジアの、あるいはタイの、そしてもちろんラオスの電波を自動的に拾った。彼女の方は日本の通信会社のものを使い続けているから手動で選択する必要があったが、とにかく、夫婦が滞在しているのはそういう場所だ。メコンの流れのなかに小さな島々が点在する地域で、対岸はタイ、一時間も南下すればカンボジア国境に辿り着く。ラオスの言葉でシーパン(四千)ドン

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理髪店にて

舗道に散り積もった桜の花びらを南よりの風が舞い上げる昼下がり、古い理髪店を訪れる。馴染みの店ではないし、昔から見かけていたわけでもない。そもそもこの町に暮らしたことなどないのだ。ローカル線の乗り換えで少し時間があったので、途中下車をして駅前を散策することにした。旧国鉄の路線をJRが次々第三セクターに売り払ってしまったため、この地域の鉄道路線は分断され、長距離を移動するには本当に使いづらくなった。そ

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ファミリア・ストレンジャー

北陸の水の豊かな町で暮らしていた頃、市街地を流れる幾本もの小さな川のひとつに沿って歩くのが日課だった。どんな由縁があるのか奇妙な名前のついたその川は、はるか山脈の濡れた襞の奥深くから流れ出して、三メートルにも足りない川幅一杯に水流を迸らせている。普段は浅く清らかな川で、橋の上から見下ろすと幾匹もの鯉が流れに逆らうように佇む様子が見える。ところが、一旦大雨となれば石を積み固めた堤の際あたりまで濁流が

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