カワイルカ・ツアーはいかが

バンコクで買ったSIMカードを挿した彼のスマートフォンは時にカンボジアの、あるいはタイの、そしてもちろんラオスの電波を自動的に拾った。彼女の方は日本の通信会社のものを使い続けているから手動で選択する必要があったが、とにかく、夫婦が滞在しているのはそういう場所だ。メコンの流れのなかに小さな島々が点在する地域で、対岸はタイ、一時間も南下すればカンボジア国境に辿り着く。ラオスの言葉でシーパン(四千)ドン(島)。中州というには抵抗のあるくらいに大きな島からただの雑草の塊といった体のものまで全て含めると、本当に四千くらいはありそうだった。なかでも賑やかなのはデット島で、ふたりもそこを目指してきたのだが、ボートが船着き場に到着する直前になって、彼の方が隣のコーン島に上陸すると予定を変更した。煩そう、というのがその理由だった。今回に限っては、ガンジャもロックミュージックも必要ない。彼にとっては、バンコクに赴任して初めての長い休暇だった。もう少し静かな場所でひと息をつきたかったのだ。

「楽しそうよ」と、彼女は言ったが、それは言ってみただけだ。夫について日本を離れた時と同様、彼女にしてみればどちらでもよかった。

夫婦は、メコンの水面に張り出したデッキのあるバンガロータイプのゲストハウスに宿をとった。木造の建物は古く僅かに傾いていたが、客室の前のデッキはハンモックが吊られ、なによりメコンに沈む夕日が美しい。ふたりは一日の大半をこのデッキで過ごした。コーン島は彼の期待どおりにとても静かで、下に舫いである宿のボートの舳先をくすぐる水の音が聞こえるほどだった。時折行き来するボートのエンジンも、バンコクの水上交通のことを思えばほとんど気にならない。別の宿のバンガローで、フィンランド人の年老いた男がガットギターをつま弾いている。そんな昼下がりに、

「カワイルカ、本当に見られるのかな」と、ハンモックに揺られながらスマートフォンでSNSをチェックしていた彼女が言った。

「どうかな」

彼は傍らの椅子に腰掛けて、読んでいた本から目をあげる。手すり越しに、川面に浮かんだ一艘の小舟から網を投げる漁師が見えた。

カワイルカのツアーは、ゲストハウスのマダムが朝食を運んできた時に薦めてくれたのだった。米粉を使った麺か雑炊、パンと卵料理のいずれかを選ぶことができる朝食をとったのがもう10時をまわっていたので、ふたりはこの日、昼食は抜くことにして寛いでいる。

「見てみたいな、あたし」

「何が捕れるのかな」と、彼はまだ川を眺めている。

彼女もハンモックの上で上半身を少し起こし、彼の視線を辿って舟を見つける。

「ナマズ、とか」

ナマズは、未舗装の埃っぽい道端の屋台で焼かれていたものを、一昨日だったか、彼が買い求めてその場で食べた。甘辛い味付けで、悪くはなかったけれど、微かに土の、匂いと異物感があった。

「かもしれない。カワイルカじゃないことだけは確かだ」

「そうね」

「あとでマダムに詳しいこと聞いてきてあげるよ」と、彼は言う。「行きたいの、ツアー」

「だって、暇じゃない」

すると彼は、髪型が変わったことを気づかず責められた時のように、改めてじっと妻を見つめ、やがて柔らかく微笑んだ。

「そうか、俺は君とこうしてるだけで結構楽しいけどね」

彼女はそれに対して何か言うべきだと思ったけれど、正しい言葉が見つからなかった。

「それより、今夜の食事はどうする」

どうしたいの、と、つい返してしまうのは彼女の癖で、

「質問に質問で返すのは反則だよ」と、彼が続けるのもお約束。いつものことだった。

「じゃあ新鮮なカツオが食べたい」

半ば冗談で、彼女が言う。

「それは無理だな」

そうして彼は、手元の本を閉じて立ち上がった。

「散歩に行かないか」

「まだ暑いじゃない」

彼はその場に立ったまま、また川の小舟を眺めている。濁った川面に日射しが乱反射していて、シルエットだけではやはり、何を捕っているのか、何が捕れているのかまでは分からなかった。ただ、川面で見事に広がる投網の動きは見ていて飽きない。もっと近くで見てみようか、と彼は思う。

「じゃあちょっと、美味しそうな店を探してくるよ」

「うん」
そうして彼女は、またスマートフォンの世界に戻る。彼が部屋からサングラスを取り、デッキを横切って出かけていく時にも顔をあげることはなかった。
彼は、フロントとは名ばかりの、ただテーブルをひとつ置いただけの土間でマダムとすれ違う。すれ違ってしまってから、マダムが思い出したように振り返った。

「明日の朝食は何にします」

そう訊かれて咄嗟に英語が出てこなかった彼は、しばらく考えてやっと答えた。

「あとで妻に訊いておきます」

彼もまたマダムに訊くことがあるような気がしたが、結局そのまま宿を出る。ちょうどその時、サイドカーをつけたバイクのトゥクトゥクが近づいてきて、エンジンの音よりも強い金髪の若い女たちの嬌声を香水のように振りまきながら、やがて悪路に身もだえして走り去った。その土埃と享楽の音が落ち着くのを待って、彼は歩きだす。あの漁師の舟を見られる場所を探して、ひとり川の辺りへと下りていく。











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