理髪店にて

舗道に散り積もった桜の花びらを南よりの風が舞い上げる昼下がり、古い理髪店を訪れる。馴染みの店ではないし、昔から見かけていたわけでもない。そもそもこの町に暮らしたことなどないのだ。ローカル線の乗り換えで少し時間があったので、途中下車をして駅前を散策することにした。旧国鉄の路線をJRが次々第三セクターに売り払ってしまったため、この地域の鉄道路線は分断され、長距離を移動するには本当に使いづらくなった。それでも、時間に追われてさえいなければいいこともある。再び立ち寄る理由などなかった町で好ましい理髪店を見つけた。しかしまぁ、それは外から眺めた佇まいからくる印象に過ぎず、重厚で黒ずんだ石積みの外壁も、そこをくり抜いて設えた燻んだ木製ドアも、そして何より昔ながらの回るサインポールも、あるいは見掛け倒しということも十分にあり得るのだった。なにしろ初めての店だ。かつて喫茶店だったところに懐古趣味の若い理容師がオープンさせた、というようなことも考えられるわけだが、どうやらそれは杞憂だった。窓のなかで白衣姿の老婦人が床の髪の毛を掃き集めている。ドアは重く、引き開けると頭の方で涼やかなベルが鳴った。
「髪、切っていただけますか」

「どうぞ」

七十歳代前半くらいの矍鑠とした老婦人がまっすぐに腰を伸ばして言った。

「ちょうどよかったですよ。今しがたおひとり終わったところで」

聞けば、最近は予約がある時にしか店を開けないらしい。

「流石にもう歳ですから」と、彼女は小さく笑う。

「そんな。まだまだお元気そうじゃないですか」

「それに随分とお客さんも減ってしまいましたし」

入り口を入ってすぐ左側が書棚で仕切られていて、その奥の窓際に長椅子のソファーとテーブルが置かれ、壁の吊り棚にのったテレビがついている。懐かしいドラマの再放送のようだった。何年か前に亡くなった俳優の声に聞き覚えがあった。大きな鏡の前の、三脚並んだうちの真ん中の理容椅子に座るよう促される。

「どんなふうにしましょうか」

鏡のなかには旅に疲れた中年男と優雅で落ち着いた老婦人が映っている。彼女は足下のペダルを操作して椅子を少し下げ、客の頭の位置を調整し、慣れた手つきで櫛を入れながら客の曖昧な注文に耳を傾ける。その立ち振る舞いは確かに、何十年も同じ土地に暮らし、ひとつの仕事を生業に生きてきた職人のそれだった。彼女だけではない。いかにも使いこまれた頑丈そうなバリカンやドライヤー、シェービングカップと髭ブラシ、タオル蒸し器、クロスの上に丁寧に並べられたカミソリ、壁にかけられた革砥といった年季の入った備品のそれぞれに、同様の美しさが備わっている。願わくば、そのうちのひとつになりたかった。せめてあのソファーで丸くなって眠る猫にでもなって、シェービングクリームと天花粉の匂いが混ざり合った清潔な空気のなかで生きていけたら。前かがみになって髪を洗ってもらい、耳元でバリカンが唸る音を聞き、僅かな躊躇や迷いもなくはさみを入れる手つきを眺めながら、ふとそんなことを考えてしまうのだった。

「そういえば、駅前に小さな飲み屋さんが集まってた路地がありましたよね」

途切れがちな会話のなかで、もう何年も前に立ち寄った時のことを思い出しながらそう言うと、

「あぁ、映画館の裏ですね。再開発で映画館ごとなくなっちゃいましたけど」

あの飲み屋街を知っているんですか、と少し意外そうに、けれどとても嬉しそうに彼女は笑った。

「今は新しいホテルが建って…古いものはどんどんなくなっちゃいますね」

「あそこにあったお店は」

「さぁ。移転したところもあるかもしれませんが、みんな年寄りでしたからね」

うちも継いでくれる者もいないからと、左手の指で髪をはさみ上げながらその先端を切りそろえる動作を繰り返して、理容師の表情は変わらない。ふと床を見れば、生気のない髪の毛が辺り一面に散らばって、今日までこんなにも沢山の必要のないものを運んできたとは、ちょっと信じがたいほどだ。

「失礼ですがお子さんは」

「娘がね、結婚して東京に」

幸せに暮らしているに違いないと、悔いのひとつも感じさせない彼女の言葉を聞いてそう思う。正月には孫でも連れて帰省しただろうか。

そうして彼女がシェービングクリームを泡立て始めた頃、奥の引き戸が音を立てて開き、顔の上に蒸しタオルが乗っていたせいで確認はできなかったけれど、

「お客さんかね」と、おそらくは連れ合いの、年老いた声だ。

散歩に行くのだという。
「あんまり遠くまでは駄目ですよ」
片方引きずるような足音がドアが押し開け、例のベルが鳴って、蒸しタオルを取り除けられた時には視界の端でゆっくりとまたドアが閉まるところだった。外の風が強まったような気配がする。

「前はふたりでやってたんですけどね。あの人、手が震えるようになっちゃって。私もいつまで続けられることか」

柔らかくてあたたかな泡が顔に塗られると、目を閉じて全てを彼女に委ねる。やがてカミソリが、小気味のいい音をたてて肌を滑っていく。いつまでもこうしていたいともう一度願う。その願いは、もちろん叶うことはない。まるで無関係な、ここにはひとつの完結した家族があって、見ず知らずの旅人が入り込める余地などない。彼女の丁寧な仕事が終われば、入ってきた時と同じようにあのドアから出ていくだけだ。そしておそらく、二度とこの理髪店を訪ねることはないだろう。いつの日か再訪することがあったとしても、営業を続けているという保証はどこにもないのだ。それでも、今日ここで髪を切ってもらえて幸せだった。まだ終わってもいないのに、何故だかもう感傷的になっている。俄かに鼻腔の奥が熱いのは、シェービングクリームのせいだろうか。
これでまたもう少し、旅を続けられそうだ。


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