【書評】E・H・カー『歴史とは何か』(清水幾太郎訳)

 今年、E・H・カー(1892-1982)の『歴史とは何か』(原著は1961年)の新訳が刊行されて話題となっている。60年振りの新訳とのことであるが、筆者はまだその新訳のほうを読んでいない。とはいえ、筆者はかつて歴史学を専攻していた学生であり、新訳の刊行を機に、60年前に刊行された岩波新書版(清水幾太郎訳)のほうを思い出し、手に取り再読し、歴史研究にまつわる事柄をあれこれと考えることとなった。
 筆者が歴史学を専攻したのは今から11年前のことであり、その後大学院は哲学科に進学するといった事情があったものの、右も左もわからないままに歴史学を専攻し始めた頃に、西洋史研究法の講義に出席した際に本書の存在を初めて知った訳である。筆者はいずれ日本史を専攻するつもりでいたのだが、とにかく日本史以外の研究法の講義をも履修しなければならなかった。そこで、西洋史研究法の講義を履修した訳である。
 日本史において歴史学の入門書としてまず紹介されるのは、網野善彦(1928-2004)の著書であった。これも11年前のことであるが、筆者が通っていた大学の史学科では、新入生全員に網野の『日本の歴史をよみなおす』(ちくま学芸文庫、2005年)が配布されたことがあった。学費の一部を有効に還元した格好となったが、ここではその内容の紹介は控える。とにかく、当時の史学科の学生が網野の手になる入門書をどれだけ理解していたかは、筆者にもよくわからない。
 話を元に戻して、西洋史研究法の講義において、様々な西洋史関連の研究者や必読書や入門書が紹介されたが、なかでもとりわけ必読書・入門書として薦められたのが本書であった。筆者が本書の存在を知った時点でも刊行からもうすでに50年ほどの年月が経っており、右も左もわからない当時の筆者にしてみれば、もっと新しい入門書を薦めて欲しいと思ったものである。今年、新訳が刊行されて話題になっている様子を見るに、今でも本書が必読書・入門書として薦められているように思われる。筆者も講義で聞いてすぐに本書を手に入れ、ざっと眼を通したものだが、当時の印象としてはだいぶ小難しいことが書かれているなと思ったものである。これから、カーの歴史観の根幹を中心に、本書の内容を簡単に紹介していくことにする。
 カーは、「歴史とは何か」といういかにも哲学的な問いに対して、次のように答えている。

  歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。

  カーのこの一文は、本書の「歴史家と事実」という最初の章の最後に記されており、この一文に至るまでにカーは歴史家と事実との関係を事細かに説明している。この一文は、本書の至る所に頻出しており、カーの歴史観の根幹に位置しているように思われる。
 カーは、「歴史家と事実」という最初の章を二人の歴史家の対称的な文章を引用し対比するところから始めている。二人の歴史家の文章というのは、一方がアクトン(1834-1902)によって1890年代に書かれたもので、もう一方は、サー・ジョージ・クラーク(1890-1979)によって1950年代に書かれたものであり、二つの文章の間には60年もの年月の隔たりがある。アクトンのほうは、「完全な歴史」を作ることができる自信を語っているのに対して、サー・ジョージ・クラークのほうは、「完全な歴史」を作ることへの懐疑を語っており、この違いについてカーは、「私たちの全体的な社会観の変遷を反映している」と語り、さらに、「歴史とは何か」という問いに対する答えは、意識的、無意識的を問わず、私達の時代的地位を反映し、自分の生活する社会をどう見るかという広汎な問題に対する私たちの答えの一部分を形作るとした。
 以上の二人の歴史家の対称的な文章に言及した後にカーは、19世紀の歴史学の状況を語っている。詳しく言えば、近代歴史学が確立した時期のことであり、それは事実のみが尊重された時期であって、この時期の歴史家は「本当の事実」を示すことだけを求めた。ランケ(1795-1886)が道徳主義的歴史に対して、正当な抗議を試みたのを皮切りに、ドイツ、イギリスのみならず、フランスの歴史家ですら「本当の事実」という言葉をあたかも呪文のように唱えるに至った。とりわけ、実証主義的な歴史家は、事実を確かめた後にその事実から汝の結論を引き出すべし、と主張した。カーによれば、イギリスにおいて事実尊重の歴史観は、ロック(1632-1704)からラッセル(1872-1970)に至るイギリスの経験論哲学と完全に調和的であるという。経験論哲学においては、主観と客観との完全な分離、つまり二元論を前提とし、観察者から独立した事実が外部から観察者にぶつかって来る。このような認識の過程は極めて受動的で、つまりは、所与(この場合は事実)を受け取った後に、観察者が所与(事実)に働きかけるというものである。カーによれば、このような考えから生み出された歴史観は常識的歴史観であり、この歴史観によれば、歴史は確かめられた事実の集成から成るものとなる。これは、アクトンに批判的だったサー・ジョージ・クラークも例外ではない。
 過去に関する事実のすべてが歴史的事実となる訳ではない。シーザーがルビゴン川を渡った事実と部屋の真ん中にテーブルがある事実は、似たような事実であり、また、シーザーがルビゴン川を渡った事実とその以前にも以後にも何百人もの人間がルビゴン川を渡った事実も似たような事実である。だが、歴史家は言うまでもなくシーザーがルビゴン川を渡った事実を歴史的事実とみなす。カーは問う。歴史上の事実を過去に関する他の事実から区別する基準は何か、と。そこでカーは、すべての歴史家にとっての共通の基礎的事実について語り始める。例えば、ヘスティングの戦闘が行われたのが1066年だという事実がそれである。だが、カーによれば、それは歴史家が特別に関心を持つ事実ではない。すべての歴史家にとっての共通の基礎的事実は、歴史家が用いる材料に属するものに過ぎず、歴史そのものに属するものではない。その上、基礎的事実は、事実そのものの性質ではなく、歴史家のアプリオリの決定によって明らかにされると、カーは言う。「事実はみずから語る」という言い慣わしは嘘であり、歴史家が事実に呼びかけた時にのみ事実は語り、いかなる事実、いかなる順序、いかなる文脈で発言を許すかを決めるのも、あくまで歴史家である。したがって、歴史家の解釈から独立に客観的に存在する歴史的事実を信じることは、前後顚倒の誤謬であり、また、この誤謬をなかなか除き難いものであるとカーは言っている。
 同様のことは、事実のみならず、文書についても言える。法令、条約、貸付台帳、青書、公式書簡、私信、日記といった文書は私達に向かって何を語るか、とカーは問う。だが、どのような文書も文書の筆者が考えていたこと以上のものを語ることはない。つまりは、歴史家が文書の研究を行い、文書を解読するまでは何も意味しないということであり、事実は、文書に載っているにしろ、載っていないにしろ、歴史家の手で処理されて初めて歴史家が使えるものに過ぎない。もちろんカーは、事実と文書は歴史家にとって大切なものであることを強調している。とはいえ、事実や文書が自分で歴史を形作る訳ではなく、それらを祭り上げてはならない。
 カーは、19世紀の歴史家達が歴史哲学に無関心であったことについても言及している。カーの見立てでは、西ヨーロッパの知識人にとって19世紀は、自信とオプティミズムが滲み出た時期であり、歴史の意味は自明であると信じられ、それゆえこれに対して面倒な問題を提出したりするという傾向は微弱だったとのことである。そして、このような自信過剰な事実尊重の歴史観は、自由放任の経済学説と深い関係にあったという。カーの説明は次のようなものである。「誰でも自分の好きな仕事に精出すがよい。そうすれば、見えざる手が普遍的調和の心配をしてくれるだろう。歴史上の事実それ自身が、より高いものへ向う恵み深く且つ明らかに限りのない進歩という至高の事実を立証するものと見られていたのです。」
 だが、19世紀末に事態は変わり始め、次第に歴史哲学が必要になってくる。カーによれば、その動きはドイツにおいて始まった。つまり、19世紀のリベラリズムの支配を覆すべく奮闘しなければならなかった国から始まったという訳である。とはいえ、この時期のイギリスにおいてはあまり変化がなかった。しかし、次の動きはイタリアで起こり、クローチェ(1866-1952)が一つの歴史哲学を提議するに至った。カーによれば、その歴史哲学はドイツの動向に依るところが大きいとのことだが、クローチェは、「すべての歴史は「現代史」である」と宣言した。その意味は次のようなものである。「その意味するところは、もともと、歴史というのは現在の眼を通して、現在の問題に照らして過去を見るところに成り立つものであり、歴史家の主たる仕事は記録することではなく、評価することである、歴史家が評価しないとしたら、どうして彼は何が記録に値いするかを知り得るのか、というのです。」
 カーによる説明を借用した訳であるが、カーによれば、クローチェの言葉がイギリスやフランスにおいて流行したのは、1920年代以降である。その契機は第一次世界大戦であり、カーは第一次世界大戦後の諸事実が以前のように温かく微笑みかけてくれないように見えたために、私達は事実というものの権威を減らそうとする哲学に親しみを感じるようになったと考えている。
 カーの分析の正当性はともかく、カーによれば、クローチェの歴史哲学は、オックスフォードの哲学者であり歴史家であるコリングウッド(1889-1943)に大きな影響を与えたという。カーは、コリングウッドの見解を次のようにまとめている。

 歴史哲学は「過去そのもの」を取扱うものでもなければ、「過去そのものに関する歴史家の思想」を取扱うものでもなく、「相互関係における両者」を取扱うものである。(この言葉は、現に行なわれている「歴史」という言葉の二つの意味――歴史家の行なう研究と、歴史家が研究する過去の幾つかの出来事――を反映しているものです。)「ある歴史家が研究する過去は死んだ過去ではなくて、何らかの意味でなお現在に生きているところの過去である。」しかし、過去は、歴史家がその背後に横たわる思想を理解することが出来るまでは、歴史家にとっては死んだもの、つまり、意味のないものです。ですから、「すべての歴史は思想の歴史である」ということになり、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」ということになるのです。

 クローチェの見解にしろ、コリングウッドのそれにしろ、そこにおいては事実尊重の近代歴史学に対する批判が語られており、いずれにおいても現在を生きる歴史家と過去との関係を強調しているように思われる。歴史家の心のうちにおける過去の再構成は、経験的な証拠を頼りに行われるが、この再構成自体は経験的過程ではなく、単なる事実の列挙でもない。むしろ、再構成の過程が事実の選択と解釈とを支配し、まさにこれこそが事実を歴史的事実たらしめるものであるとカーは言っている。
 クローチェの歴史哲学こそ、当時の歴史学界において非常に画期的なものであったが、カーはイギリスにおけるクローチェの影響を示すためか、コリングウッドの見解のほうばかり詳しく説明していく。ここでの紹介はだいぶ控えるが、カーはコリングウッドの見解の問題点への言及も忘れていない。カーは問題点を二つ挙げているが、一つは、歴史記述における歴史家の役割の強調を論理的帰結にまで押し進めるとすべての客観的歴史を排除することになり、歴史は歴史家が作るものになってしまうというものである。この場合、完全な懐疑主義に陥ることになる。コリングウッドは、歴史は単なる事実の編纂であるという歴史観に反対したあまり、今度は、歴史を人間の脳髄が編み出したものと考える危うい淵に近づき、客観的な歴史的真理は存在しないという結論へ逆戻りして行くと、カーは考えている。もう一つは、カーによれば、もっと大きな危険が潜んでいる仮説だという。それは、自分の研究する時代を見るのは必ず自分の時代の眼を通してであり、過去の問題を研究するのは現代の問題の鍵として研究するのだとなれば、歴史家はプラグマティックな事実観に陥り、正しい解釈の基準は現在のある目的にとっての適合性であるという主張になるというものである。この仮説に立つと、歴史上の事実は無で、解釈が一切だとなる。カーによれば、アメリカのプラグマティストもこれと同じ方向に進み、知識の妥当性は目的の妥当性に依存することになり、知識はある目的のための知識となった。カー自身の研究領域においては、事実を乱暴に取り扱った無茶な解釈の例があまりにも多く、歴史記述におけるソヴィエト学派および反ソヴィエト学派の極端な諸論を通読すると、純粋事実の歴史という19世紀の歴史学が時に恋しくなると、カーは嘆いている。
 次にカーは、本書が刊行された時点においての事実に対する歴史家の義務の考察を始める。カーは、歴史家は自分が研究しているテーマや企てている解釈に何らかの意味で関係ある一切の事実を描き出す努力をしなければならないとしつつも、それは歴史の生命である解釈ということを除き去って構わないということを意味しないとした。そこでカーは、歴史家が歴史を書く際の仕事ぶりを説明する。一般的には次のように考えられている。つまり、歴史家は史料を読みノートブック一杯に事実を書き留めるのに長い準備期間を費やし、次に史料を傍らへ押しやり、ノートブックを取り上げて自分の著書を一気に書き上げるというものである。だが、その方法はカーには不可能なことのように思われる。カーの場合は次のようなものである。「私自身について申しますと、自分が主要史料と考えるものを少し読み始めた途端、猛烈に腕がムズムズして来て、自分で書き始めてしまうのです。これは書き始めには限りません。どこかでそうなるのです。いや、どこでもそうなってしまうのです。」
 つまりは、読むことと書くことが同時に進むということである。ここでカーが言いたいのは、両方を切り離して一方を他方の上に置くことは不可能だということである。ただ、可能であるとすれば、それは二つの異端説(極論)のいずれかに陥るだけである。
 以上のように歴史家と歴史上の事実との関係を考察したカーは、歴史家は二つの難所の間を危く航行するまったくの不安定な状態にあると結論づける。つまり、歴史を事実の客観的編纂と考えて解釈に対する事実の無条件的優越性を説く支持し難い理論の難所と、歴史とは歴史上の事実を明らかにしこれを解釈の過程を通して征服する歴史家の心の主観的産物であると考える支持し難い理論の難所との間のことである。もっとわかりやすく言うと、歴史の重心は過去にある見方と、歴史の重心は現在にある見方との間ということである。これによってカーが示したかったのは、歴史家と事実との関係は平等な関係であるということである。カーによれば、歴史家の陥っている状態は、人間の本性の一つの反映である。つまり、次のように微妙で関係的な状態である。

 生まれたばかりの乳児期とか非常な高齢とかは恐らく別でありましょうが、人間というものは、決して残りなく環境に巻き込まれているものでもなく、無条件で環境に従っているものでもありません。その半面、人間は環境から完全に独立なものでもなく、その絶対の主人でもありません。

 そして、歴史家が陥っているのは、次のような状態である。 

 実際の歴史家が考えたり書いたりする時の自分自身の仕事ぶりを少し反省してみれば判ることですが、歴史家というのは、自分の解釈にしたがって自分の事実を作り上げ、自分の事実にしたがって自分の解釈を作り上げるという不断の過程に巻き込まれているものです。

 先にも言及したように、一方を他方の上に置くことは不可能である。歴史家は事実の仮の選択と仮の解釈から出発するものであり、仕事が進むにつれ、解釈も事実の選択や整理も両者の相互作用を通じて半ば無意識的な変化を被る。歴史家は現在にあり、それゆえこの相互作用は現在と過去との相互関係を含んでいる。つまり、歴史家と歴史上の事実は互いに必要不可欠なものであるということである。事実を持たない歴史家は根がなく実も結ばず、歴史家のいない事実は生命も意味もない。そしてカーは、「歴史とは何か」といういかにも哲学的な問いに対する回答を示す。その内容は先に言及した通りである。
 以上は、本書の最初の章の紹介であるが、紹介がだいぶ長くなってしまったのでここで切ることにする。これだけでも、カーの歴史観の根幹を充分に示せたと思う。他の各章については、今後新訳のほうを紹介する際に紹介できればいいと考えている。
 今回、岩波新書版である本書を再読して改めて思ったことは、歴史学の必読書・入門書として今なお紹介される本書が大学に入学したばかりの歴史学の学生にとっては非常に難解だということである。本書においては、ヘーゲル(1770-1831)、マルクス(1818-1883)、ニーチェ(1844-1900)のみならず、ディルタイ(1833-1911)やカール・ポパー(1902-1994)等々、様々な哲学者の名前が見られ、歴史家についても、今ではほとんどと言っていいぐらい知られていない名前ばかりが散見され、大学院では哲学を専攻した筆者は、今となっては本書の内容をおおむね理解できるが、一貫して歴史学を専攻する学生および院生にはやはり難しいかも知れない。今回は紹介しなかったが、本書の四つ目の章にある「自由意志と決定論」は、本来は哲学で議論されるべき事柄である。
 本書を読む限り、カーの立場は明らかにランケを端緒とする近代歴史学に批判的なものである。つまり実証主義歴史学批判であるが、カーが本書において歴史家とは独立に存在する客観的事実ではなく現在を生きる歴史家と過去の事実との関係性を強調する歴史哲学を打ち立てたクローチェやその影響下にあるコリングウッドを詳しく紹介している様子を見るに、カーは両者の歴史哲学に好感を持っているように思われる。ただ、問題点の指摘も忘れておらず、クローチェの歴史哲学にも同様のことが言えそうだが、とりわけコリングウッドのそれについては、完全な懐疑主義やプラグマティックな歴史観に陥る可能性を指摘している。その後のカーの論述を見る限り、カーは近代歴史学とクローチェやコリングウッドとの間の立場を取ろうとしているように思われる。つまり、先にも言及したように、歴史の重心は過去にある見方と現在にある味方との間のことであり、歴史家と事実との関係は平等な関係であって、一方を他方の上に置くことはできないということである。それをやろうとすれば、二つの異端説に陥る他はない。
 カーが本書において頻繁に用いる表現、つまり、「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」という表現について、筆者にしてみれば非常にメディア受けするような表現のように思われるが、カーが本書において示した立場については異論はない。
 カーの論述において気になった点を挙げるとすれば、クローチェやコリングウッドの哲学的・思想的背景についてである。カーは本書において19世紀末以降の歴史哲学の発展について簡単に語っているが、筆者もその内容に異論はない。1920年以降にイギリスやフランスにおいて歴史哲学が普及し始めたことについても、第一次世界大戦が終わり、シュペングラー(1880-1936)の『西洋の没落』(原著は1918年)が広汎に読まれたことを考えれば、異論はない。ただ、クローチェの哲学的・思想的背景について言うと、筆者としてはもやもやが残る。カーは本書においてクローチェの歴史哲学は当時のドイツの動向に依るところが大きいと語っている。それはそれで間違いではないが、反デカルトとして知られるヴィーコ(1668-1744)からの影響についても言及して欲しかったように思う。それは、クローチェの影響下にあるコリングウッドについても同様のことが言える。
 今年、本書の新訳が刊行され話題になっていると本稿の冒頭において述べたが、筆者の印象としては、西洋史の関係者の間ではだいぶ話題になったものの、日本史の関係者の間では一部を除きそれほど話題にならなかったように思われる。それには、日本史を取り巻く事情が大きく関わっているように思われる。マルクス主義歴史学の影響力が衰退し、主流が実証主義歴史学に逆戻りした1990年代頃に、歴史修正主義と呼ばれる歴史認識が現れ始め、以後客観的事実を提示する形で実証主義的な歴史学者が歴史修正主義と見なされる物書きに反論する事態が続いてしまっている。筆者はカーと同様に歴史家とは独立に客観的事実が存在するという考え方に疑問を持っており、もしかしたら筆者と同様な疑問を持っている歴史学者も意外と多いかも知れない。だが、修正主義的な言説が氾濫する昨今の情況を考えると、日本史学者がカーのような立場を取ることは難しいのかも知れない。
 筆者は歴史家とは独立に客観的事実が存在するという考え方に疑問を持っていると書いたが、そのような立場を取る筆者としては、実証主義が今では何かしらの専門性を指し示す権威的な用語のように思えてならない。筆者の史学科の時の指導教員は自ら何の疑いもなく実証主義者を称する人物であったが、常日頃学生に、「事実だけ書いていればよい」とだけしか言わなかった。筆者の当時の指導教員は今ではもう70歳ぐらいになるが、世代間で実証主義という用語の捉え方が異なっているように思えてならない。ここ最近、特定の女性研究者のみならず一部の論壇の方々への誹謗中傷を繰り返した中世史学者といい、テレビ局側の責任の許に「軍歌」を「戦時歌謡」と言い換えてそれをお茶の間に垂れ流し続けた華族とセーラー服研究の近代史学者といい、実証主義や専門家といった看板の許に修正主義的な言説を氾濫させている様子を見ていると、そろそろ実証主義という用語に疑惑の眼を向けたほうがいいように思われる。後者の華族とセーラー服研究の近代史学者について言うと、当時の筆者の指導教員のお墨付きで非常勤として当時の筆者が通っていた大学の史学科に来たことがあったが、講義での強権的な振舞いが大勢の学生の反発を呼び、当の指導教員はその研究者を姑息な形で終始フォローし続け、責任逃れの姿勢を一切崩さなかった。このような事態こそ「専門禍」と呼ぶべきである。もう近代的なイズムに過ぎない実証主義など過去のものとし、歴史学者は今後、本書において示されたカーのような立場を謙虚に踏襲すべきであるように思われる。
(岩波新書、1962年3月刊)

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