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音楽の反解釈

1.二つの奇蹟

ヒトが生まれるはるか以前から音は存在した。あまりにも自明すぎるので普段は忘れているが,音楽とことば,という二つの奇蹟が誕生するより先に,この世界はおそらく音で溢れていた,ということだ。そして,音楽もことばも,実は音でできている。(今田匡彦『哲学音楽論:音楽教育とサウンドスケープ』)

 これは,弘前大学教育学部教授である今田匡彦の著書『哲学音楽論:音楽教育とサウンドスケープ』の序章の冒頭である。なるほどヒトが生まれるはるか以前から世界中にはたくさんの音が存在していて,どういうわけかそこから奇蹟的に〈音楽〉と〈ことば〉が誕生したらしい。この二つの奇蹟は,実は西洋の歴史に立ち返ると,〈ことば〉が〈音楽〉の上位概念として存在してきたことが分かる。

 西洋哲学では,世界のあらゆる事象の普遍,原理を〈言語〉によって追求し,意味付けようとしてきた。故に,それら事象のひとつである〈音楽〉においても,〈言語〉による意味付けによって,その存在価値が問われるようになった。〈言語〉によって普遍,原理を追求してきた西洋哲学の世界では,鳴り響く空気としての〈音楽〉そのものではなく,当然〈言語〉による解釈に価値が置かれる次第であった。

 このように〈言語〉には意味が存在する。例えば,〈イシ〉ということばには,同じ音韻にもかかわらず,「石」「意志」「医師」といったさまざまな意味が包含される。では,〈音楽〉そのものにそのような意味など存在するのだろうか。答えは単純明快である。〈音楽〉 は鳴り響く空気でしかなく,そこに意味など存在しないのである。

2.透明な批評としての反解釈

 私が小学生だった時,音楽の授業では「ここは悲しい気持ちで」「ここは夕焼けを思い浮かべながら」など,感情やイメージによる指導ばかり行われていた。そのようなものは個人の主観でしかなく,身勝手な解釈の押し付けにすぎないのだ。アメリカの批評家ソンタグは,エッセイ『反解釈』で次のように言う。

批評の機能は,作品がいかにしてそのものであるかを,いや作品がまさにそのものであることを,明らかにすることであって,作品が何を意味しているかを示すことでない。(S.ソンタグ『反解釈』)

 我々に必要なのは,解釈による〈言語〉の置き換え行為ではなく,鳴り響く〈音楽〉そのものに着目し,その艶や肌理を透明に写し取ることなのである。

 この記事を読んでくださった皆様には,まずは耳を研ぎ澄まし,徐々に喪失しつつある(であろう)感覚的経験の鋭敏さを取り戻すことで,あの忘れかけていた感覚を呼び覚ましていただけたら幸いである。

 そして私自身,中学校の音楽教員の一人として,コロナの影響による音楽教育の様々な制約の中で,「音楽とは何か」という根源的な問いを「音」を手がかりとして子どもたちと共に追求し,創意工夫のある音楽表現へと繋げていきたい。


Yuki ISHIKAWA


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