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認識論からみた音楽

1.〈認識/対象〉

 〈音楽〉を〈言語〉によって言い表そうとすることは,〈対象〉としての〈音楽〉を〈言語〉に内包される「意味」によって〈認識〉するという行為だと換言できる。この「主観としての〈認識〉と客観としての〈対象〉を一致させること」という二元論は,実はデカルト以降の近代哲学における最も根本的な問題だった。

2.デカルト,カントの二元論

 近代哲学の祖デカルトは,「〈認識〉と〈対象〉の一致」を〈神〉という完全なる存在によって保証されていると考えることで,この問題を解決しようとした。つまり,完全なる存在である〈神〉が,人間の判断力を誤ったものとしての造るはずがないとして,人間の〈認識〉が真理に達し得ると考えたのである。

 それに対しカントは,デカルトのように〈神〉という存在を根拠とはせず,実質この〈認識〉と〈対象〉の乖離を認める見解に至った。ただ,「現象界」と呼ばれる〈認識〉の領域は,ある程度の客観性を持ち得るとし,一方,人間の認識能力ではどうしても到達することのできない絶対的な〈対象〉そのものを「物自体」と呼び,この二つの領域を分け隔てたのだった。

3.フッサールの批判

 フッサールは,『厳密な学としての哲学』の中で,これらのデカルトからカントに至るまでの各々の思想に対し,「哲学の非〔科〕学性を告白している以外の何ものだろう」と疑問を呈した。というのも,近代哲学の根本の問題は,「〈認識〉と〈対象〉の一致」であった。しかし,デカルトやカントの思想においては,〈対象〉を〈認識〉することが,絶対的なものではなく個性的な仕方によって追求していくものとなってしまっていると指摘する。

 例として,〈対象〉を〈音楽〉で考えてみよう。デカルトの思想によると,「鳴り響いている〈音楽〉の〈認識〉は,〈神〉の存在によるものである」と,また,カントの思想によると,「鳴り響いている〈音楽〉を〈言語〉によって絶対的に〈認識〉することなど不可能である」ということになる。しかし,フッサールの主張では,〈神〉によって我々が〈音楽〉を同じように〈認識〉することなどあり得ないし,〈音楽〉を絶対的に〈認識〉することはできないと断言してしまっては,哲学的に本末転倒となってしまう,というのである。

 そこでフッサールは,〈神〉の存在への依存や,〈認識 /対象〉の解離の承認という考え方を否定し,誰もが数学や幾何学と同じように,人間が正しい〈認識〉を得るための学問としての「厳密な学としての哲学」の構築を目指したのだった。そして,いかなる先入観や形而上学にもとらわれず「事象そのもの」を把握して記述する方法として,「現象学」を提唱したのだった。

 次回の記事では,フッサールが提唱した「現象学」についてまとめ,それを〈音楽〉に当てはめて考察していく。


Yuki ISHIKAWA

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