ウエストサイド寿司職人
その提灯は俺の目の前にぼうっと現れたように思えた。
──マット寿司。
まるで何かの啓示か。にしてはいささか和風すぎる。
それにカリフォルニアで和食といったらNOBUで高級レストランだ。こんなフッドの一角に寿司屋などあるはずもない。
ネオンに照らされた看板を見ると『寿司一貫 1ドル』と書かれている。
馬鹿な。安すぎる。
和食だぞ? コンプトンの吉野家もここまで安くねえ。
きっと、アメリカナイズされたスパイシーな寿司に違いねえ。メキシコ系の血が騒ぐ。
のれんをくぐり中に入る。少ない照明と木製のカウンターが日本っぽさを演出している。
「いらっしゃい!」
流暢な日本語なのかはわからない。ただ店員はアフリカ系だった。
「何にするんだ。兄弟」
「あんたが」
「マットだ。握手はなしで頼む。寿司は衛生第一だ」
マットは日本らしさの欠片もない態度で接客する。その方が親しみやすいが、やや調子外れだ。
「それで──マット。外にあった、1ドルってのはマジなのか」
「マイク・タイソンのパンチ並みにマジだ」
「じゃあ……そうだな、マグロを頼む」
「マグロ?」
マットは呆れたように首を振る。
「しっかりしろよ兄弟。ここにはタマゴしかねえ」
「なんだって」
耳を疑った。
「タマゴしかないって? スシ屋だぞ?」
よく見たら寿司屋特有の生鮮食品を置くガラスケースがない。それどころか魚の意匠や、生臭さも感じられない。だが、タマゴだって?
「馬鹿にしてるのか?」
「おいおいおいおい、俺はこれでも日本で修業してきたプロだぜ。ファッキン・シリアスだ」
「だが、スシと言ったら魚だろう?」
マットは息を吐き、包丁を手に取る。
「あのなあ兄弟。今のスシ・スタイルが誕生したのは江戸時代。白人が俺らの先祖をくそったれの奴隷にしていた時代だ」
「俺の母親はメキシコ系だ」
「だから何だ。オバマ気取りか? 話の腰を折るんじゃねえよ」
「俺はただ」
「いいから黙って聞いていろ。いいか! そんな時代にだ。生魚? イカやタコ? あるわけがねえ」
マットは厚焼きたまごと酢飯を手のひらで包み込み、素早く形を整える。
「故にだ。故に、生鮮食品じゃねぇたまご寿司こそ寿司本来の在り方なんだよ」
寿司下駄にほかほかのたまご寿司が置かれる。
「Ay Yo お待ち。たまご寿司です」
頼んでもいないのに。温かみのあるイエローが食欲をさそった。
確かにマットの言う通りだ。塩漬けの肉みたいなのを食っていた時代に、さらに時代遅れな日本が生魚を食っていたとは思えねえ。
なによりマットは日本で修業していたと言っていた。マットの言葉には説得力がある。
思わず手が伸びる。イエローの輝きへ。
ふと、指先に厚焼きたまごとシャリの感触。
寿司の握りは速さがものをいう。魚の温度を散らさないため、職人は神速の技を身につける。たまご寿司職人なんかにゃあ勿体ない技術。
だが、なるほど。こうして触れてみると、熱々のたまごとひんやりとしたシャリの温度差が心地いい。もたついた握りじゃあこうはいかない。
このマザーファッカーは計算して握ってやがる。日本で修行したってのは伊達じゃねえようだ。
覚悟を決める。
たまご寿司に醤油をつけ、口の中に放り込む。
ふわりと、たまごの風味が口蓋を撫でる。シャリの酸味が舌を走り、醤油の塩気が口の中に広がる。
「マジかよ」
思わず頭を抱える。
柔らかなたまごは甘くやさしいまろやかさで、ふんわりとした食感だ。粒がたったシャリは粘り気が少なく、そよ風のように風味が広がっていく。
三位一体の味覚とギャップのある食感。全ての要素が互いを引き立てている。どれか一つが欠ければ成しえない、雪の結晶のようなたまご寿司。
「──マジかよ」
このファッキンたまご寿司は衝撃的な味か?
否だ。全くもって否だ。
マットの握ったたまご寿司は、むしろ滅茶苦茶口の中で馴染みやがる。例えるならば、近所のドロシーばあさんが作ったバターミルク・フライドチキン並だ。わかるだろ? ダウン・ホームってやつだ。
「マジかよ……」
これにはもう頭を抱えるだけだ。もし食事がシェフと客のフィスト・ファイトなら完敗で、犬なら腹を丸出しにしてるところだ。
「どうだい、お味は」
マットは「言わないでもわかるけどな」という面をしている。
だが言わずにはいられない。
「マット、あんたの──このマザーファッカーな──くそったれたまご寿司は──マジ最高だ」
マットは我が意を得たりと言わんばかりに指を鳴らす。
「だろう?」
「マジ完敗だよ。マット、あんたはマジ最高だ」
「おい兄弟、食うのか褒めるのかどっちかにしろ」
湯呑をぐいと煽る。口の中に残っていた甘みと酸味がじんわりと溶けていく。思わずほうと息が出る。
「こんなにヤバイ寿司食ったのははじめてだぜ」
なんせ、たまご寿司でこの俺をノックアウトしやがった。まともな腕じゃねえ。
「だが一つ聞いてもいいかい?」
「ほう」
マットが目を細める。
「なんでこのたまご寿司は、なんつーか……馴染むというか、こんなに懐かしい味をしているんだ? まるで、おふくろの味のような」
「聞きたいか?」
「素直に言うのはムカつくが、滅茶苦茶聞きたい。大麻使ってるとかじゃないよな?」
マットは寿司を握りながら微笑む。一貫、また一貫。たまご寿司が寿司下駄に置かれる。
「──ネアンデルタール人を知ってるか? 人類の起源だ」
「なんの話だ?」
「まあ聞けって。ネアンデルタール人はな、アフリカで生まれたんだよ。知らなかったろ。寿司職人は博識なのさ。つまり、人類は元々みんなアフリカ人だったということになる。俺らも、白人もメキシコ人もな。なあ、兄弟」
マットは溶き卵を熱々のフライパンに注ぎ込む。
「だが、アメリカじゃあ俺らは余所者扱いだ。白人しかいない町へ行ったことがあるか? まるで皆がスーツでキメてる中、俺だけ全裸で踊っている気分だ。わかるだろう?」
「まあ……」
肩をすくめる。わかりきった話だ。視線は剣となり言葉は銃となる。この国で生きると言うのはそういうことだ。
「こいつも同じだ。たまご寿司も、今じゃ頼む奴なんて子供くらい。大人は除け者扱い。同じなんだよ。俺らとたまご寿司は」
焼きあがった厚焼きたまごを均等に切り分ける。
人類の祖であるネアンデルタール人と寿司の大本であるたまご寿司。
「だから馴染むってのか? 俺らとたまご寿司が同じ存在だから……」
マットは微笑む。
「あと大麻を使ってるよ」
「大麻使ってんのかよ」
「ああ、大麻を滅茶苦茶使ってる。米を炊くときに一緒に漬けるんだ」
そりゃダウンホームなわけだ。
だが、先ほどの話もあながち嘘を言っているようには思えなかった。確かに俺はたまご寿司で、たまご寿司は俺だった。
もしかしたら、俺はメキシコ系だのアフリカ系だのこだわり過ぎていたのかもしれない。俺は俺。人類はみな兄弟なのだ。
「なあ、マット。もっと食わせてくれよ。そのたまご寿司をよ」
「すっかり気に入ったようだな、兄弟」
マットは微笑んだ。
「Ay Yo お待ち。たまご寿司です」
【おわり】
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