問いを立て、答えをつくる!これにワクワクしてほしい。
どうして自分なりに問いを持つ事が難しく感じるのかを考察してみました。「自分なりの問い」に対して、答えに間違いはないはず。なぜなら、自分が作り出すというなのだから、答えは自分で作りだすことができる。
答えは自分でつくれる!
これがプレッシャーに感じる子たちが多いのであろう…「答えを用意された問題」を解き、答えを覚える事に価値があると教えられているから…答えを自分でつくれるんだとワクワクする要因は何だろうか?
好奇心
これであろうと思う。好奇心については、過去の記事…
例えば、
部活の先輩が厳しくて言う事を聞きたくない…
特攻隊には長男は行かなくても良かったの?
という、上下関係が気になった時にどうするのか。好奇心を持たず、当たり前を疑わずに「ルール」だからと受け入れて従うのか?それとも、自分なりの問いを持って考えるのか?
前者の当たり前を受け入れるように強要していると、好奇心の芽を摘むことになる…自分なりの問いを持ってほしいから、ボクは…
「日本は儒教文化があるからな…」
と、部活の先輩に対する不満を口にしていた生徒に投げかけました。そこからの2人の会話に出てきた主なワードは…
儒教
論語
孔子
聖徳太子
仏教
親鸞
大化の改新
公地公民
この辺りの話となりました。そして、生徒が自分で問いを立てました…
「儒教文化や仏教、神道を取り入れた聖徳太子は何を考えたのか?」
この問い、すごくないですか?そして、答えは…
「権威と権力を分けた日本をつくった」
こんな風に答えを導き出すことが中学生でも可能です。権威(=天皇)、権力(=中臣鎌足etc)という答えです。このような問いや答えを間違っていると言ってはいけないのが本当の教育だと考えています。
価値観を認めるのが教育
完璧な中立の考えで教育を行わなくてはいけない!と決まっているなら、このような権威と権力を分けるとか、宗教的な考えなどを伝えることができません。ボクは、教育者の価値観を乗せて魂を乗せた言葉で伝えることが教育ではないかと考えています。
(公教育においては完璧な中立の元で行われているのでしょうが…)
教科書は知識の宝庫
先の部活の先輩に対する不満から儒教文化へと考えを巡らせた時に出てきたワードは全て教科書に載っています。これらの知識がなくては「自分なりの問いを立て」「自分なりの答えを出す」ことは不可能です。
知識の詰め込みは必要です!
詰め込んだ知識をどうやって使うのか?
知識を詰め込むペースが横並びの全一緒である必要があるのか?
この辺りは、今の教育システムに対して疑問を持っている点であります…
生徒が自分んで「権威と権力を分けるという考え」に至ったのは、本当に素晴らしいなと思いました。
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<編集後記>
今日は台風で休校とさせていただき、内勤業務に専念するとともに。知識のストックを整理することができました。ボクなりの知識の整理方法については、また機会があれば書きたいなと思っております。
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