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ひとりの時間

子どもの頃は癇癪持ちで、感情の赴くまま行動して、周りを混乱させる性格だった事と、田舎過ぎて近所に遊んでくれる同学年くらいの子どもが少なかったため一人で遊ぶ事が多かったです。タモ網を持って魚を獲りに行ったり、縄文遺跡の畑で石器や土器の表面採集をしたりと一人の時間を楽しんでいました。一人の時間を楽しむようになったのは、その裏に自分が退屈を感じる事に一種の不安や恐怖があったからのように感じます。

退屈が怖い

当たり前の話ですが、一般に誰もが歳をとる毎に体感する時間がどんどん早く感じると言われます。私は子どもの頃、何故か退屈で時間が経つのが遅く感じると不安になり、その体感がまるで無間地獄のようでめちゃくちゃ辛かったです。これが永遠に続くのでは無いかという、気が遠くなるような所在なげな時間です。

私の心象風景として、次のエピソードがあります。

夏休みの朝早くに目が覚めてしまい、家族が起きてくる前に居間に行ってテレビを点けてみるもまだカラーバーの局が多く、白のみの画面にエリック・サティの「グノシエンヌ」がかかっている局を見つけます。それを見続けていると、本当に何とも言えない「退屈」という言葉だけでは表せない、この止まったような時間が永遠に続くのでは無いかという強烈な不安に襲われたのです(エリック・サティの音楽に依るところも大きいですが)。

このような体験は幼い頃度々あったように思います。この感覚に陥ると、何だか自分自身がバラバラになったような、「そもそも自分って何?」「時間って何?」「生きるとは?」「死ぬとは?」と普段考えないようにしている不安の箱を開けてしまいそうになりました。子どもだからこその、世界に対する言語化できない不透明さ、不明確さ、心許なさが込み上げてくるのです。そんな危うい時間から自分を遠ざけるために、一人で時間を忘れる楽しみを見つけようとしたのだと思います。もちろん、人と一緒に過ごしているとそのような事は無かったように思います。

黙読が苦手

今思い出すと、退屈を怖がる子どもの頃の私にもう一つの傾向ありました。それは、集中して本を読む事ができないという事でした。別に文章の読み書きは問題ないのですが、理由は分かりませんが落ち着いて座って本を読むということが出来なかったように思います。ある時、本が好きな友達が一人静かに黙々と本を読んでいるのを見て「自分とはずいぶん違うもんだなぁ。」と不思議に思った記憶があります。

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文章自体、短時間なら読むことができますが、長時間になると集中できず気持ちが別の方に行ってしまいました。これが不思議とテレビのアニメとかであれば集中して見れていました。恐らくテレビはビジュアルを提示してくれるので受動的な受け身のメディアだと思うのですが、本を読むという習慣は、自分の頭で咀嚼してイメージするという能動的な楽しみ方が必要となります。そこが私にとって苦手だったように感じます。

本が読めたら一人で退屈な時間も、本の世界にダイブする事で時と場所を選ばず楽しめるはずです。そうすれば、エリック・サティの世界が襲ってくる頻度は減ったのではないかと思います(今はエリック・サティは好きです。トラウマ的な物って人を惹きつけますね)。

中学生になると不思議とそれまでの衝動的な性格に落ち着きが出始め、本の黙読もできるようになりました。友人もできて、勉強や部活も忙しくなり一人遊びをする時間も減っていきました。それに伴って、あの時の退屈の不安感が襲ってくる事は次第に無くなっていったのです。今では、あの時の不安な気持ちは何だったのだろうかと思う反面、あの不安感が懐かしく感じたり、当時の繊細な感覚を今では失ってしまったようなよく分からない喪失感も同時にあるのです。

ひとりの時間の大切さ

40歳を過ぎて思うのは、幼い頃は孤独で持て余していたひとりの時間を愛せるようになって来た事と、ひとりだからこそ楽しめる事があるのだという事です。確かに若い頃は誰かと一緒にいないと寂しい夜や、ひとりで食事なんて寂しいと思う事がありました。しかし、歳を重ねると良い意味で鈍感になる部分があって、人の目をそれほど気にしなくなります。それに反比例するかのように、ひとりの時間の方が楽しめる事も増えていくように思います。

特に一人旅や、温泉、サウナなんてひとりであるからこそ自由に楽しみに対して感覚を研ぎ澄ませる事ができると思うのです。確かに誰かと楽しみをシェアする事や、お喋りに夢中になるのも楽しい。でも、それはどちらかというとコミニケーションを楽しんでいる。ひとりの時間は、自分と向き合い普段の喧騒から離れた救われている時間だと思います。

人気ドラマにもなった、原作久住昌之、作画谷口ジローの漫画「孤独のグルメ」の中で、洋食屋に来た主人公が自分が食べている時に店員を叱責する店主に向かって言うセリフが好きです

「モノを食べる時はね 誰にも邪魔されず 自由で なんというか 救われてなきゃあ ダメなんだ 独り静かで 豊かで…」

ドラマ盤も嫌いではないですが、グルメガイド的なドラマとは別に、原作はどちらかと言うと主人公吾郎のひとりの時間の静かな豊かさに焦点が当たっている気がします。それは、別に美味しい店が無くても、コンビニ飯を自分なりにチョイスするだけで、一気にひとり静かで豊かな時間になってしまう。そんな感覚です。また、芸人のヒロシさんのBSの番組「ぼっちキャンプ」のご飯のシーンも好きです。インスタ映えとは程遠い、地元のスーパーで適当に買った食材を思いのままに食べる様子に同じものを感じます。

さいごに

noteの記事を書くようになって、以前に行ったひとり旅の振り返りをするようになって気づいたことがあります。今では割と当たり前になった一人での外食も、3年くらい前は若干抵抗があったり、旅先で美味しそうな店を探す努力をしていなかったなと感じます。ひとり時間を満喫する者としては、まだまだ自分はビギナーだな時感じる反面、これから楽しい事が沢山待っているという期待も同時に湧いてくるのです。

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