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【連載】「いるものの呼吸」#3 まどのそとのそのまたむこう

 幽霊、場所、まだ生まれていないもの――。目に見えない、声を持たないものたちの呼吸に耳を澄まし、その存在に目を凝らす。わたしたちの「外部」とともに生きるために。
『眠る虫』(2020年)、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(2023年)など、特異な視点と表現による作品で注目を集める映画監督・金子由里奈さんの不定期連載エッセイ。
 第三回は大江健三郎著『取り替え子チェンジリング』について。大江と義兄・伊丹十三との特別な関係から生まれたこの小説に強い印象を受けた金子さん。伊丹映画と大江作品との関連を手掛かりに、「取り替え子」というタイトルに新たな光が当てられます。
 *本文中、食用に動物を捌く描写があります。 

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 私はいま冬のベルリンにいる。朝7時。あたりはまだ真っ暗で、朝日の気配はない。外に出る。歩道の真ん中に堂々と立つ自転車が私を見ている。タバコはそこら中に落ちていて、植物は枯れたまま大きくなっている。灰色の湿度。風が爽やかに肌を刺す。そういえば、とふと思い出す。大江健三郎著『取り替え子チェンジリング』の登場人物であるちょうこうはこのベルリンで「quarantine」を過ごした。自殺した友人・はなわろうの魂からできるだけ遠ざかるために。

 その吾良のモデルになった伊丹十三監督の『タンポポ』(1985年)のワンシーン。
「まどのそと」にあるとある小料理屋。主人公・タンポポがオーナーである老人の喉に詰まった餅を掃除機で取り出したお礼に、スッポン料理の御馳走である。料理人がスッポンと対峙する。スッポンに興味津々のタンポポ。思わず手を伸ばす。ッバ!と、餅老人の手がすぐさま飛んできてタンポポの手を掴む。「危ない! 注意してもらわんと。スッポンの歯というのは一枚刃の剃刀みたいに鋭いんですわ! こんな指なんかサーっと食いちぎられちゃう!」

 料理人は、いとも簡単にスッポンの血抜きを済ませる。餅老人は言う。「こういう風にスカーって殺してやらんと、肉が縮んで血が中で固まってしまう。美味しゅうなくなるんですわ」

 大江健三郎はスクリーンという「まど」越しに、伊丹十三の映画を欠かさず見ていた。一方で、「まどのそとのそのまたむこう」で大江は『取り替え子』を書き上げた。ふたりは高校の同級生で、生涯にわたって特別な関係にあった。

私が、バスで三時間かかる森のから、松山の高校に転校していくと、伊丹は私をして、学校の授業時間よりほかは私を離さず、ありとあらゆることの教師をつとめてくれた。

大江健三郎『親密な手紙』(岩波新書)傍点原文のまま

 大江が大学に進学したのち、二人は東京で再会し、大江は伊丹の妹であるゆかりと結婚した。ふたりは義兄弟となった。やがて、大江は日本文学における最重要作家のひとりとなり、伊丹もまた、マルチに活躍し、非凡なエンターテインメント映画を世界に放ってきた。暴力団の民事介入暴力について徹底的に批判した『ミンボーの女』(1992年)が公開されてまもなく、伊丹は暴力団に襲撃された。理不尽な暴力に対し、伊丹は毅然と作品を作り続けた。しかし1997年、伊丹プロダクションのあるマンションの駐車場で、屋上から飛び降りたと思しき彼の遺体が見つかる。大江は、伊丹の死をひとつのきっかけに構想していた小説を書き直した。それが『取り替え子』である。

『取り替え子』という小説は、世界的な映画監督、塙吾良の自殺からはじまる。高校時代からの友人であり、作家であり、吾良の義弟である長江古義人は、吾良の残した30巻以上のカセットテープを田亀という装置を介して再生し、吾良の魂との交信を試みる。ただ、これは表層だけをすくっただけのあらすじに過ぎない。大江の小説はどうしたって、大江の「個人的なこと」と絡めながら読んでしまう。そういう仕掛けがふんだんに施されているから仕方ないことかもしれない。でも、例えば、『取り替え子』で謎のまま残される『アレ』――高校生の古義人と吾良が二人で経験するとある事件――について紐解いた時に浮かび上がる、ホモセクシャリティ性を文字として指摘することには葛藤がある。(いま指摘してしまったんだけど)なんとなく、纏うものを、纏うままに受け取りたい。解釈してしまう自分がまっとうなのかわからなくなる。
 わからない。どう読めば、死者たちへの冒涜にならないか。どう考えれば、死者たちと共に生きることになるのか。それらを、大江は自身の書く姿勢を通して教えてくれている。死者に対するこの「もがき」こそ、祈りの始まりなのだと。

 スッポンの話に戻そう。『取り替え子』の中でも最もスペクタクルな、スッポンと古義人の格闘シーン。可笑しく、血生臭く、動物を殺すことの暴力性と理不尽さと、ドタバタとする主人公・古義人。物語の文脈からは無意味に近いこの長い格闘シーンがあり、その相手に「スッポン」が選ばれているのは、私には伊丹十三の『タンポポ』が影響しているように思えてならない。伊丹十三があっけなく捌いたスッポンを、大江は「まど」のむこうから見ていた。『タンポポ』では、動物を食すシーンがたくさんあるけど、そこに大江文学のような、動物を殺す暴力性や、死体の匂いが充満する気配は読み取れない。さっぱりと、実に生き生きと、動物を殺し、人間が生き生きと動物たちを食べる。もし、大江が『タンポポ』を撮ったなら、まったく別物の死と生命を描くだろうと想像する。

 この古義人のスッポンとの対決は、吾良が死んだ空虚な理由に取り憑かれ、それでも死者と対話しようとするもがきを、大江が客観的に見つめている距離感があり、寂しくおかしい。結局、古義人はスッポンの血飛沫のしみをしっかりと服に刻んで、スッポンの肉塊を、すべてゴミ箱に捨て食べなかった。古義人は重いゴミ缶を外に出してもなお、「憤激したスッポンの荒々しい鼻息の音」を耳に焼き付ける。死者との共生が主要なテーマではあるが、幽霊は存在しない大江文学の中で、この「音」は、スッポンの幽霊に近いものかもしれない。一方、伊丹十三の『タンポポ』では、スッポン鍋を食すシーンもささやかに通り過ぎるように5秒ほどでおわる。大江の小説と伊丹の映画の関係性はまだまだ語り尽くせないだろう。大江原作『静かな生活』(1995年)の映画化はもちろん、『スーパーの女』(1996年)で登場する青果品売り場の「ミツ」は、大江の実の息子である大江光をモデルにした人物「イーヨー」をなぞるようなキャラクターである。凝り固まった集団の考えに風穴を開ける存在だ。もしかしたら「ミツ」の漢字表記は「光」ではないだろうか。ちなみに、その『スーパーの女』で津川雅彦が、また『タンポポ』で山崎努が演じる副主人公の名前は「五郎」と「ゴロー」である。

 話をずらす。ずらし、という大江文学の足取りを、私も真似してみる。実は私もスッポンと格闘したことがある。友達と琵琶湖に行ったときだ。友達はこんぴら(よく考えたら凄いニックネームである)と呼ばれている。こんぴらは遠くから、大きな石のようなものを掲げて笑顔で近づいてきた。「スッポン!」私は爆笑した。ビニール袋に入れて、スッポンを持ち帰る。帰りに乗ったバスでその存在が暴れないか、怖かった。そのまま、私とこんぴらは私の家に帰り、スッポン鍋を作ろうという話になった。一口コンロの小さなキッチンで暴れるスッポンを見て、私は半径30センチを逃げ回っていた。こんぴらは小さな包丁を手に取ると、そのスッポンと格闘した。私はたまにスッポンを押さえたりした。スッポンの身体はコンロの脇に収まるほど小さかった。それを抑える私の手につながる人の身体の大きさ。古義人と同様、深夜過ぎまで格闘は続き、切っても、切っても、動いていたスッポンは、やっと動かなくなった。スッポンの首を切ると、血が出てきて、それを二人で飲んだ。飲んだ後に、野生のスッポンの血には雑菌が繁殖しているから絶対に飲むなという記事を見つけた。なんだかハイになっていて、引いていく血の気もなく、記事を読んでもなおふたりで血をごくごく飲んだ。ここにある多くの暴力性を、私はいま見つめ直している。

 先ほど、ずらしは大江文学の足取りと言った。周知のことであるが、大江は「個人的なこと」を中心に幾度もその同心円上をなぞってきた。その筆跡は四国の森から宇宙的なものまでも包括する、深くて大きい円を作った。

『取り替え子』の終章「モーリス・センダックの絵本」では、古義人や、吾良などの男性ジェンダーが物語から退場し、女性たちの物語になる。 
 古義人が田亀と物理的距離を置くためにベルリンに行き、帰ってきた。そのトランクを古義人のパートナーであり吾良の妹である千樫が整理していると、とある絵本を見つける。モーリス・センダック『まどのそとのそのまたむこう』。千樫はこの絵本に運命的な繋がりを覚える。絵本の主人公であるアイダを自分自身だと感じ、アイダの母もまた自分の似姿であると魂を揺さぶられるのだ。
 千樫に一本の電話がかかってくる。シマ・ウラと名乗るその女性は、吾良がベルリン国際映画祭に行った際に身体の関係を持った過去がある。彼女は、千樫に会いにくる。シマ・浦は吾良に「顔立ちが似ているように思っただけで、魅きつけられた」男性との間にできた子供を妊娠しており、その中絶手術を受けるために日本にやってくるが、古義人のとある文章を読んで、出産することを決断した。

 その文章で、古義人は、熱にうなされていた幼い日を回顧していた。医者の「この子は死ぬだろう、もうどうすることもできない」という声を聞いて、彼は母に問いかける。「お母さん、僕は死ぬのだろうか?」しばらくの沈黙ののち、古義人の母は口を開く。

――もしあなたが死んでも、私がもう一度、生んであげるから、大丈夫。

大江健三郎『取り替え子』(講談社文庫)

 はじめてこの言葉に触れたとき、息が詰まるような感じがした。不気味で、包括的で、異様な感じがした。それを「女性」に物語の中で言わせている大江が怖いと思った。『二百年の子供』などほかの作品にも、この言葉は何度も出てくる。「大丈夫、わたしがまた産んであげる」

 死んでしまった子供たちの替りに、生まれる子供たち。この終章でやっと、影となって小説を泳いでいた「取り替え子」が水面に形を見せる。シマ・浦は古義人の文章を読んで出産を決意する。結局、男性の書いた文章に影響を受けて女性が決断するという構造には批判の余地があるとしても、私がここで嬉しかったのは大江が「血縁」ではなく、「言葉」としての繋がりを書いていることが全部読むとわかるからだ。

 私は、私たちはみんな他人の言葉でできている。他者の言葉を受け継いで濾過したり、自分の感情と触れ合わせたりしながら、声帯を震わせ、あるいは手や眼球を動かしながら、自分の存在を響かせる。古義人が英語で書き、ドイツ語に訳されて新聞に載ったその文章を、シマ・浦は自身の言葉で訳して発語した。それも、「取り替え子」だ。私の言葉は数多の人間の「取り替え子」である。

 そのようにして書物群の前に坐っていると、自分の頭蓋のなかに赤い心臓が透視される。それもひとつの弁にこまかな血管が直接幾本もつながって頭の外に出ている。それらの一本、一本がこれも目をこらせば書棚の本の一冊、一冊に届いているのでもある。それらの本と自分の、血管を介したつながりに、しみじみした安堵を覚えたのだ。

同上

 大江自身も、言葉を血肉にし、死者の言葉をもがいて探し、読み解き、「取り替え子」として文字を生み出してきた。それはつまり、大江は伊丹の「取り替え子」としてこの小説『取り替え子』を書いたということでもある。

 大江は昨年亡くなったが、でも今、私が大江の言葉の「取り替え子」である。もしこれを黙読しているあなたがいればこれに続く。私たちはずっと、同じ言葉の中にいる。まだ生まれてきてないものたちも。「取り替え子」をはじめて読み終えた時、私が死んだ後に、この本を手にとるその人と手が触れ合ったような感覚になった。大丈夫。生まれてきてないものたちが、わたしの言葉に続くなら、わたしはきれいにいなくなることができる。こうやって、続いていく言葉を実感した時、大江は自分の「個人的なこと」そして、死者と共に生きるための「もがき」から、解放されつつあったのかもしれない。井上ひさしと小森陽一との鼎談で大江はこう述べている。

 おおげさにいうと、人類の子供は続いているということですね。自分の中に、人間を発見することで過去の人類にもつながるし、自分の中の子供を発見することで未来につながってもいく。(中略)今までは連続性が恐怖のもとでした。それが今は希望とまではいいませんけれども、僕は死ぬ時に、そんなにじたばたしないで死ぬことができるだろうという気持ちを持ち始めています。そういえば、この『取り替え子』がそのきっかけを準備してくれたわけですね。

『大江健三郎・再発見』「座談会 大江健三郎の文学」(集英社)

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著者:金子由里奈(かねこ・ゆりな)
東京都出身。立命館大学映像学部在学中に映画制作を開始。山戶結希 企画・プロデュース『21 世紀の女の子』(2018年)公募枠に約200名の中から選出され、伊藤沙莉を主演に迎えて『projection』を監督。また、自主映画『散歩する植物』(2019年)が PFF アワード 2019に入選し、ドイツ・ニッポンコネクション、ソウル国際女性映画祭、香港フレッシュ・ウェーブ短編映画祭でも上映される。初⻑編作品『眠る虫』(2020年)は、MOOSIC LAB2019においてグランプリに輝き、自主配給ながら各地での劇場公開を果たした。初商業作品『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(2023年)は、大阪アジアン映画祭、上海国際映画祭で上映されるほか、第15回TAMA映画賞最優秀新進監督賞を受賞した。

バナーデザイン:森敬太(合同会社 飛ぶ教室)

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