ノーチャイムで主体性が育つ? 恐るべし学校の「神話」
教育界の常識は疑ってみるべきだ。
なぜなら、学校には「神話」と呼ぶべき「常識」がいくつもあるからだ。
今回は、そんな「神話」の中から、「ノーチャイム」を取り上げる。
ノーチャイムが子供の主体性を伸ばす?
現在の小学校では、昭和の時代に比べて授業の始まりや終わりなどの日課を知らせるチャイムの数が少ないところが多いようだ。
中には、まったくチャイムを鳴らさない学校もあるという。
今回、「神話」として考えたいのは、そうした「ノーチャイム」の是非ではない。
それぞれの学校が子供を中心に据え、ノーチャイムまたはチャイム数の厳選によって、ねらいとする教育の効果を上げているのであれば、それは素晴らしいことである。
今回、問題視したいのは、学校がノーチャイム化していくときに、そこに見られる「根拠」の一つとなる、ノーチャイム主張の言説の一つである。
それは、次のものだ。
「ノーチャイムまたは、チャイム数を減らすと、子供の主体性が伸びる。だから、ノーチャイム化、またはチャイム数を減らすことをするべきだ。」
ここで言う「主体性」とは、「チャイムに動かされずに、自分で時計を見て判断し行動する態度や能力」といった意味で使われる場合が多い。
私は、これもまた学校の「神話」の一つであると考える。
誤解のないように、ここでもう一つ断っておく。子供が時計を読めるようになることや生活場面で時計を用いて行動することができるようになることは、とても大切なことであると、私は考えている。当然である。だから、低学年の算数でも時計、時間と時刻についての学習があり、どの教師も苦労をして指導を行う。低学年時にとっては難しい内容なのである。
だが、そのことと、ノーチャイムは何の関係もない。
管見では、ノーチャイムが子供の主体性を伸ばすというエビデンスは、どこにも見当たらない。
にもかかわらず、そう信じて疑わないところに問題があると言いたいのだ。
ノーチャイム運動の経緯とねらい
私の経験では、ノーチャイムを求める主張が学校内部で見られるようになったのは、昭和の終わりから平成の初めに掛けてのことだ。
昭和50年代、校内暴力が増加するなど学校問題が注目を集めることによって、社会・マスコミによる学校批判がさかんに行われた。
その流れを受けて、学校内でも教師らによる学校改革が徐々に進んでいった。ノーチャイム運動は、その中で生まれた。
当時を振り返ると、ノーチャイムを求める意義には、次の二点があったように思う。
一点目は、学校・教師による封建的な「支配」からの子供の解放である。
もう一点は、学びの充実を期してのものである。固定的な授業時間に縛られることなく、子供の学習意欲や活動に合わせて授業を進めるためには、チャイムの音が邪魔であるという考えだった。
この「主体」観についての議論は、ここでは行わない。
ここでは、一点目の意義にイデオロギー的傾向が見られるものの、少なくとも、ノーチャイム運動の出発点においては、学校や教育を学習者中心のものに「転換」しようとする意図があったことを確認しておきたい。
そこにあるのは、子供をチャイムの枠などに縛られない極めて動的な存在として見る見方である。
「現在」のノーチャイム論
つまり当時は、子供というものを、学習を楽しいものにすれば、日課に縛られずに学び続ける存在として見ようとしていた。
もちろん、逆に遊びが楽しければ、休み時間が終わっても遊び続ける存在でもあるとも見ていた。だから、「チャイムが鳴らなくても、時計を見て休み時間が終わった時刻になったら、席に着きなさい」という指導をしたのである。
「現在」のノーチャイム主張者は、この後者の見方だけを切り取ってねらいとしているかのように見える。休み時間の終わり、すなわち授業の開始時刻を「主体的に」守らせることが、子供の主体性を伸ばすということの真意であるようだ。
そこにある子供観は、かつてのような子供をダイナミックで動的な存在として見る見方ではなく、チャイムに動かされる「パブロフの犬」のようだ。
「現在」のノーチャイム主張者には、かつてのノーチャイム運動時に、青年教師であった世代が多い。何も分からぬまま、ただ「ノーチャイムは子供のためになる」と刷り込まれているのかもしれない。当時、熱く語っていた先輩教師の言葉の表面的な部分しか理解できないまま、未だに信奉しているというところか。
また、自身の実践で、ノーチャイムにしたら子供が時計を見て行動するようなったという経験があるのかもしれない。
しかし、それは「事実」の理解が誤っていないかと自分で疑ってみる必要がある。
自分の学級の子供たちが、ノーチャイムにしたら時計を見て行動するようになったのは、時計や時間を意識するように自分が指導をしたことの成果だったという可能性もある。
事実、私の学級の子供たちは、これまでチャイムが鳴る学校でも、時計や時間を意識する指導をすることで、鳴り始める数秒前にはもう席に着いていた。時計を見て、「そろそろチャイムが鳴る頃だ」と判断して行動していたのである。
もちろん、そんな子供たちでも、休み時間によってはチャイムの音を聞いてから慌てて席に着くこともあった。遊びに夢中だったのだ。
しかしそれを、「チャイムに動かされた」というのであろうか。
時間を意識していても、つい忘れてしまうということは、誰にでもあるのではないか。そのために時刻を教える合図があるのではないか。
「子供が受動的になっている」と、目くじらを立てることなのか。
まして、今やかつてと違ってどの教室にもタイマーがある。時間を決めて調べ学習をしたり計算練習を行ったりするのは、当たり前である。
タイマーの音を合図にその活動を止めることは、時間に動かされているのだろうか。逆に、「時間を上手に使っている」のではないのか。
自分で時計を見て判断し行動する態度や能力を育てることは、大切だ。
そして、チャイムが鳴ろうが鳴るまいが、その態度や能力は、育てられるのである。
しかし、一度、思い込んだ教師の考えは簡単に変わらないようだ。いつまでも、それが「正しい」ものとして主張し続ける。たとえ、その主張の根幹となる思想や教育観が脱落して皮相的な内容に変質していてもである。
学校の「神話」は、こうして残り続ける。
ちなみに、子供に自分で時計を見て判断し行動する態度や能力を育てるための指導方法は、それほど難しくはない。教師が率先して時計を見て行動し、時間を守ればいいのである。
しかし、子供が日課に縛られずに、それを組み立てたり使いこなしたりする「主体的な力」を育むのは容易ではない。時として、学校の「神話」がそれを阻害する。